桜花彩麗伝
◇
鳳邸の門前で光祥と別れた春蘭はこそこそと門を潜り、庭院の木や茂みの陰を盗人のごとく進んでいった。
裾を引き上げ、足音を忍ばせながらどうにか部屋のそばまでたどり着いたとき、ざっと砂利を踏む音が響く。
「春蘭」
びくりと肩が跳ねた。射抜かれた心臓が止まるかと思った。
「お、お父さま」
春蘭の部屋から漏れる灯りがぼうっとその姿を照らし出す。
元明は普段通りの優しい微笑をたたえていた。
「夜桜もいいものだね。月が出ていればもっと見栄えがしそうだ」
「えっ? あ、ええ……ほ、本当ね……」
春蘭の外出には気づいているはずなのに、それには一切触れずに桜を見上げながらそんなことを言った。
内心の焦りとそぐわず、つい気抜けした返事をしてしまう。
昼間は薄紅に見える花びらだが、いまは雪のような白色をしていた。
確かに夜空によく映えていて、満月でも浮かんでいればさぞ幻想的な光景となっただろう。
(怒ってない……?)
話があるのは確かなようだが、外出の理由を尋ねたり咎めたりする気配はない。
元来、元明が怒ることなど滅多になく、これまでに怒られた記憶もないのだが。
「紫苑はどうした? 一緒じゃないのかい?」
「えっと……紫苑は使いに行ってもらってるの!」
取ってつけたように誤魔化したものの、元明は「そうか」とだけ答え、それ以上追及することはなかった。
「────春蘭」
もう一度、そう呼ばれた。今度は先ほどよりも引き締まった謹厳な声色に感じられた。
顔を向けた春蘭は父の横顔を見上げる。
「今日の朝議で、妃選びを執り行うという議案が可決された」
それは臣たちが慎重に議論を重ねた結果とは言えず、容燕の一存で強行されたようなものであったが、あくまでそんな言い方はしなかった。
「妃選び……?」
「そう、主上の正妃を選ぶんだ。春蘭もその候補者になる」
心臓が重たげな音を立てる。
十六という齢を鑑みれば妥当な頃合いだろうが、婚姻など考えたことがなかった。
まして王へ嫁ぐなど現実味のない話である。
動揺を禁じ得ない様子の娘に笑いかけ、元明は控えめに頭を撫でてやった。
「……一応ね、事前に伝えておこうと思っただけなんだ。心の準備が必要だろうから」
「……ありがとう、お父さま」
いざそのときになっても覚悟が決まるかどうか自信はなかったが、その心遣いは素直にありがたいものだった。
複雑な心境で中途半端なぎこちない笑みを返した春蘭は、名前も顔も知らないこの国の王に思いを馳せる。
(王さまってどんな人なのかしら……?)
鳳邸の門前で光祥と別れた春蘭はこそこそと門を潜り、庭院の木や茂みの陰を盗人のごとく進んでいった。
裾を引き上げ、足音を忍ばせながらどうにか部屋のそばまでたどり着いたとき、ざっと砂利を踏む音が響く。
「春蘭」
びくりと肩が跳ねた。射抜かれた心臓が止まるかと思った。
「お、お父さま」
春蘭の部屋から漏れる灯りがぼうっとその姿を照らし出す。
元明は普段通りの優しい微笑をたたえていた。
「夜桜もいいものだね。月が出ていればもっと見栄えがしそうだ」
「えっ? あ、ええ……ほ、本当ね……」
春蘭の外出には気づいているはずなのに、それには一切触れずに桜を見上げながらそんなことを言った。
内心の焦りとそぐわず、つい気抜けした返事をしてしまう。
昼間は薄紅に見える花びらだが、いまは雪のような白色をしていた。
確かに夜空によく映えていて、満月でも浮かんでいればさぞ幻想的な光景となっただろう。
(怒ってない……?)
話があるのは確かなようだが、外出の理由を尋ねたり咎めたりする気配はない。
元来、元明が怒ることなど滅多になく、これまでに怒られた記憶もないのだが。
「紫苑はどうした? 一緒じゃないのかい?」
「えっと……紫苑は使いに行ってもらってるの!」
取ってつけたように誤魔化したものの、元明は「そうか」とだけ答え、それ以上追及することはなかった。
「────春蘭」
もう一度、そう呼ばれた。今度は先ほどよりも引き締まった謹厳な声色に感じられた。
顔を向けた春蘭は父の横顔を見上げる。
「今日の朝議で、妃選びを執り行うという議案が可決された」
それは臣たちが慎重に議論を重ねた結果とは言えず、容燕の一存で強行されたようなものであったが、あくまでそんな言い方はしなかった。
「妃選び……?」
「そう、主上の正妃を選ぶんだ。春蘭もその候補者になる」
心臓が重たげな音を立てる。
十六という齢を鑑みれば妥当な頃合いだろうが、婚姻など考えたことがなかった。
まして王へ嫁ぐなど現実味のない話である。
動揺を禁じ得ない様子の娘に笑いかけ、元明は控えめに頭を撫でてやった。
「……一応ね、事前に伝えておこうと思っただけなんだ。心の準備が必要だろうから」
「……ありがとう、お父さま」
いざそのときになっても覚悟が決まるかどうか自信はなかったが、その心遣いは素直にありがたいものだった。
複雑な心境で中途半端なぎこちない笑みを返した春蘭は、名前も顔も知らないこの国の王に思いを馳せる。
(王さまってどんな人なのかしら……?)