桜花彩麗伝
     ◇



 福寿殿を出た容燕は、屋舎の前に佇む航季の姿を認めた。
 石階段を下りていくと彼からの一礼を受ける。

「ち、父上……」

 暗がりでも分かるほど顔色が悪い。松明(たいまつ)の灯りが届くと、焦りを滲ませた表情が窺えた。

「何事だ」

「先ほど、施療院の院長が錦衣衛に連行されました……」

「何だと?」

 余裕に満ちていた容燕の目が衝撃で見張られた。ひそめた眉を吊り上げる。

「受け渡しの件が露呈(ろてい)したのか」

「いや、そんなはずは……!」

 航季は視線を泳がせた。

 仮に施療院で何者かに目撃されていたとしても、あそこには身分の低い医女や衰弱した患者しかいない。
 不正授受に気づいたからと言ってどうにかできるとは思えない。

「尋問はいつだ」

「明日、辰の刻(午前八時頃)だと聞いてます。ただ、その……問題が」

「問題?」

「特例で公開尋問するそうです。陛下の御前(ごぜん)で」

「なに……!? 誰がそのような────」

「わ、分かりませんが……とにかくまずい事態になりました。あの男が自白でもしたら蕭家はおしまいです!」

 がっ! と容燕は航季の胸ぐらを掴んだ。
 怯んだように父の双眸(そうぼう)を見返すが、容燕の方はとうに動揺から立ち直っていた。

「────我々のことは墓場まで持って行くよう伝えるのだ。万一にも蕭家の名を出せば命はない、と」

「え? し、しかし……口を封じた方がいいのでは?」

 もともと信用するに値しない男だ。傲慢(ごうまん)で欲深く、忠義(ちゅうぎ)に欠けている。
 あの男が黙秘を貫けるとは到底思えないのだ。

 手をほどいた容燕はしかし、悠々(ゆうゆう)と後ろで手を組む。

「いや、いまは殺さぬ」

「何ゆえですか?」

「……そなたは、あの男が私利私欲(しりしよく)の塊だと思うか?」

「は、はい。……意地汚い男ですよ」

 その性根により、尚薬局に勤めていた頃も周囲は扱いに困っていたようだ。

 ある日、とうとう医療過誤(かご)を起こした彼を当時の侍医(じい)免職(めんしょく)させ、更生(こうせい)のため施療院へ送ったわけだ。

 しかし、彼は反省することもなく未だ処遇に不満を抱き続けている。
 自尊心の高さと傲慢さに縛られているのだ。
 それゆえに過去の栄光に固執していた。実際は栄光などではなかったのだが。

 容燕にしてみれば単純かつ都合のよい存在だった。
 宮中への復職を約束してやれば、魂さえ差し出すような男であるのだから。
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