桜花彩麗伝

「航季さま……!」

 慌てた笠の男が航季を制するものの、その怒りがおさまる気配はない。

「誰に口を()いてる! 命が惜しくないのか!?」

 怒号が響き渡るが、院長の態度は変わらなかった。へらへらと軽薄(けいはく)に嘲り笑う。

「誰にだと? 勘違いするな。偉いのはおまえじゃなくて、おまえの父親だぞ」

「……!!」

 航季の顔が怒りで赤く染まった。院長の言葉は彼の地雷を踏んだのである。

 ────そこからの記憶は途切れていた。

 心の臓をまっすぐ射られた航季は、ぽた、と何かが滴る音を聞いて我に返る。

「…………」

 気づけば自分の拳は血まみれになっており、目の前には顔を腫らしてぐったりと項垂(うなだ)れる院長の姿があった。

 ぽたり、とまた滴る音がする。
 彼の顎から流れ落ちる鮮やかな血の音だと気づき、ようやく現実感が現実に追いついてきた。

「……大丈夫ですか?」

 静かな手下の声が空気を割る。
 彼は恐らく必死で止めようとしてくれていたはずだが、そんな声は微塵(みじん)も耳に入らなかった。理性も正気もまるごと失っていた。

「い、息はあるか!?」

 まずい。さっと青ざめる。
 容燕は院長を生かせ、と言っていた。

 万一にも死んでいたら、そして航季が殺したのだと知れたら、父は子であろうと許さないだろう。

 素早く屈んだ手下は院長の首に指を当てた。険しい表情で脈を確かめる────。



     ◇



「あ、出てきましたよ」

 しばしの時を経て、錦衣衛の屋舎から航季が出てくる。
 どこかおぼつかない足取りで、笠の男に支えられるようにして階段を下りた。

「あ、あれ……血!?」

 松明(たいまつ)に照らされたその手元を見て仰天(ぎょうてん)する。朱に染まった拳から雫が落ちていた。

 彼らの姿が見えなくなると、さっと物陰から飛び出した莞永は適当な兵をひとり捕まえる。

「何があった!?」

「あなたは、羽林軍の……」

「そんなこといいから!」

「あ、あの、蕭尚書が……罪人をひどく痛めつけられて」

 おののきながら答える彼に莞永は息をのむ。

「……まさか、殺した?」

「いいえ! 命に別状はありません」

 心底ほっとした。どうやら口封じが目的だったわけではなさそうだ。

「……罪人とはいえ大事な参考人だから、しっかり治療してあげてくれるか。決して死なせちゃだめだ」



 再び小門を潜った莞永はそこに潜んでいる春蘭たちに歩み寄った。

「幸い、院長は生きてるようです。先ほど言いそびれましたが、懐柔もうまくいきました」

 それを聞いたふたりは顔を見合せ、互いに安堵の息をついた。
 航季の行動は妙としか言いようがないが、ひとまず事なきを得たようである。

「────尋問はいつ?」
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