天才外科医は仮初の妻を手放したくない
「澪!どうしたんだ、大丈夫か?」
陽斗はトイレから出て来た私に声を掛けた。
そこでずっと待っていてくれたらしい。
「陽斗さん、申し訳ございません。突然吐き気がしてしまって。でも、もう大丈夫です。整形外科の診察は結構ですので、私は帰らせていただきますね。ご心配おかけしてごめんなさい。」
陽斗は何が起こっているのか分からない様子だった。
しかし、私を叩いた張本人が早乙女とは陽斗に知られたくなかったのだ。
自分の彼女が私を叩いたと分かれば、陽斗は胸を痛めるだろう。
陽斗に余計な心配はかけたくない。
陽斗は私を引き留めたが、ちょうど良いタイミングで陽斗の携帯電話が鳴ったのである。
病院の中での電話は緊急の要件なのだろう、陽斗は私を気にしながらも電話に出たのだった。
私は陽斗にお辞儀をしてその隙にこの場を去ることにした。
確かに昨日叩かれた頬は痛いが、それ以上に今はなぜか心が痛くて苦しくて重症である。
私は一人で電車に乗りながら、皆が見ているにも関わらずポロポロと自然に涙がこぼれた。
自分でもこの涙の意味はよく分からないが、心が悲鳴を上げているのは確かだ。
すると、近くにいた赤ちゃんを抱えた女性が、無言でティッシュを私に手渡し微笑んでくれたのだ。
他人の優しさがこんなにも温かいと思ったのは初めてだった。