君は君のままでいい

やるせない。君と2


 十時になると、さっき私を来客室まで案内してくれた綺麗な女性が、扉を開けて部屋の中に入ってきた。


 そして、私たちの前に立つと「はーい。それじゃあ。今日から三日間の職場体験よろしくお願いします。ふたりにはこれから保育現場に入ってもらいます」と説明をした。


 私が「よろしくお願いします」と、頭を下げると月君も頭を下げている。


 てっきりもっと礼儀のなってないやつかと思ったのに、知らない人の前ではしっかりやれるやつなのだろうか。そうは見えないけど。


 「それじゃあ、まずは自己紹介からしようか。私の名前は川口理依奈です。このかえでのは保育園で保育士をやっていて、今日から、あなたたちの保育実習担当です。わからないことがあったらなんでも聞いてね。みんなには理依奈先生って呼ばれてるの、よろしくね」


 理依奈先生が柔らかい笑顔で微笑んだ。ミルクラテ色のボブヘア、芸能人のように整ったその顔にはぱっちり二重な瞼、薄いピンクの潤んだ唇、すらっとした白い腕をうしろに組んで、少し首を曲げて、ピンクの可愛いエプロンをしていてもスタイルの良さがわかる。


 女の私から見ても、理依奈先生は本当に綺麗で仕草のひとつひとつまで可愛い。


 「椿朝陽です。将来は保育士志望です。三日間よろしくお願いします」


 「蘇轍月です。社会勉強のために保育園に来ました。よろしくお願いします」


 緊張気味に自己紹介をする月君の頬が、ほんのり桃色になっていることに私は気がつく。


 学校では不良のくせに、ここでは形無しだな思うと笑えてきた。


 「お、お前、笑ってんじゃねえ」と月君が言ってきたので、「あんたが理依奈先生にデレデレしてるからでしょ」と言い返す。


 「そんなんじゃねえよ。もともと話すのが得意じゃねんだよ」と、彼の顔がもっと赤くなる。


 「こらこら、ふたりとも。保育園ではお前やあんた呼びは禁止!ちゃんとお互い名前で呼び合ってね。子どもたちが真似しちゃう」と、理依奈先生がすぐに私たちを制した。


 そして更衣室で体操服とエプロンに着替えてから、保育実習が始まった。


 私たちが三日間入るのは、理依奈先生が受け持つ四歳児クラス。


 保育室内に入ると、ブロックの玩具でお城を作っている男の子たち、おままごとをやってる女の子たち、あとはパズルをやったり、絵本を読んでいる子がちらほらいて、常に子どもたちの声でわいわいと活気付いている。


 これが保育園の日常なんだ。いよいよやりたかった保育実習が始まる、と私は胸が弾んだ。


 さっそくブロックをやっている男の子たちと、おままごをやっている女の子たちで、場所の取り合いでケンカが始まった。


 「ここは、おままごとの場所って最初から決まってた!勝手に使わないで」と、女の子ひとりがあっかんべーをする。


 男の子のひとりが「言うこと聞かないなら、殴ってやる」と、言って拳を上げたとき。


 さっきまでとなりにいた理依奈先生が、いつの間にか男の子のとなりにいて拳を掴んで止める。


 そして「殴っても、健太君の気持ちは伝わらない。ちゃんとお話して気持ちを伝えよう」と、健太君の目を見て言った。


 拳を止められてしゅんと肩を落とす健太君に、「大丈夫だよ。先生が一緒に健太君が気持ちを伝えるの、手伝ってあげる」と言って理依奈先生が微笑む。


 「理依奈先生ありがとう」と、健太君の顔がぱっと明るくなった。


 そのあと理依奈先生が、男の子たちと女の子たちの間に入って仲裁をし、結局遊ぶ場所は交代で使う約束をしてケンカは解決した。


 理依奈先生は仕草のひとつひとつが可愛くておまけに優しい。


 保育の仕事もスマートで、私はすでに理依奈先生を憧れの眼差しで見ている。


 私もあんな保育園の先生になりたい、と心の中で思った。


 しかし、理想は所詮、理想。


 現実の私はこんなものだ。


 子どもたちの午前の遊び時間が終わって、部屋を片付け、これから給食の準備に取り掛かろうというときに事件は起きた。


 「あ、俺が頑張って作ったブロックのお城がないっ。残しとこうと思ったのにっ」と、健太君が騒ぎ出す。


 すぐにしまった、と私は気づく。


 そのブロックのお城は、これから給食だからと思って、私が勝手に片付けてしまったのだ。


 ブロックの玩具箱の中に、自分が作ったお城がバラバラになっているのを見つけた健太君は、べそをかいて激怒する。


 「誰だよ。壊したやつ、お前かっ」と周りの子に怒りだしたので、さすがに黙っていてはだめだと「ごめんね。健太君、みんなは悪くないの。もう給食の時間だから私がまちがえて片付けてしまったの」と正直に誤った。


 すると「お姉ちゃんなんてだいっきらい!もう明日から来ないで!」と言われてしまった。


 子どもの言うことだから、と思いつつ、正直私の心には鋭利な刃物のように刺さる。


 委員長としてクラスをまとめられない私。助けてもらったのに謝れない私。張りぼてで、偽善者で、弱くて、人の役にも立てない使えない私。


 健太君に否定されたことが引き金で、最近心につっかえていたいやなことを走馬灯のように思い出してしまった。


 目に涙が溜まってこぼれそうになる。


 それでも、私はとにかく子どもの前では泣かないと決めていた。


 桜舞公園で迷子の男の子に、私が焦った表情をしたとき、すぐに私の心の焦りが伝わってしまって、迷子の男の子を不安にさせてしまった失敗があるからだ。


 こんなとき、どうすれば良いのだろう。


 悠さんは迷子の男の子に対し、最初に「大丈夫だよ」と言った。


 さっきの理依奈先生も、健太君に対し「大丈夫だよ。先生が一緒に健太君が気持ちを伝えるの手伝ってあげる」と言った。


 第一声が、必ず子どもを安心させる言葉なのだ。


 私もふたりの真似をして「大丈夫だよ」と、自分の顔に笑顔を貼り付けて健太君に伝える。


 すると「なにが大丈夫なんだよ!バラバラに壊れてるじゃん!お姉ちゃん作り方わかるの?」と怒れてしまい、あっさり私は撃沈。


 そのあとも健太君は、私と喋らないどころか目も合わせてくれなくなった。


 休憩時間。


 来客室で、私はお弁当箱を開く。


 まったく食欲がない。頭の中で私は結局だめなやつなんだ。といやなことばかりを考えてしまう。


 すると、そのとき。


 「朝陽、大丈夫か?弁当食わねえの?」


 そう声をかけられ、頭を上げると月君が弁当を食べながら、じろりとこっちを見ている。


 「名前で呼ばないで」と言って、私はうつむいて唇を噛む。


 「なんでだよ。理依奈先生もそうしろって言ってたじゃん、俺が名前を呼ぶとムカつくってこと?」


 「そうじゃなくて、私は自分の名前がきらいなの」と、吐き捨てるように言った。


 「なんでだよ」と月君は首を傾げる。


 「私は、私には相応しくない朝陽なんて名前がきらいなの、だってみんなを照らすような朝日なんて私がなれるわけないし…」


 少し間があいてから「でも、お前は朝陽だよ」と、悪気のなさそうなすっとぼけた顔をして彼が言った。


 あぁ、そうか、わかった。こいつはバカなんだ。人が言われていやで、言わないでほしいと頼んでいるのに、理由も説明したのに通じないのだ。


 不良で、自分勝手で、強いだけで、顔が良いからみんなにもちやほやされて、それが蘇轍月なのだ。


 やっぱり私はこいつが本当にきらい。


 「もう呼び方なんてどうでもいいから勝手にして」と、私は諦めて肩を落とす。


 「俺の名前も呼び捨てで月でいい。そのほうが堅苦しくないし」


 「じゃー、そうする」と、私は心なく返事をした。


 休憩時間が終わって、午後の保育実習が始まる。


 私は諦めず健太君に話しかけるが、結局その日はろくに口も聞いてもらえなかった。
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