君は君のままでいい
ありがとう。を君に5
しばらく教室で月を待った。
窓から見える空をふと眺める。
西の空に沈みかかった夕焼けは、オレンジの地平線を作って街や空をあたたかく染め上げている。
そんなあたたかい夕焼けに勇気をもらって私はあることを心に決める。
今度こそ、ちゃんと月にありがとうと伝えたい。
お祭りで柄の悪い人に絡まれて助けれられたときも、職場体験が終わってから、落ち込んで公園で泣いている私に紅茶をくれたときも、そして今回の学園祭の一件でも、私は彼にありがとうと感謝を伝えそびれてしまっている。
月は、誰も手伝ってくれなかった学園祭の下準備を手伝ってくれて、ガスのことで立場が悪くなった私のもとに急にあらわれて、自分がみんなの敵になってしまうかもしれないのに私を守る言葉を言ってくれた。
最初は大きらいだった不良のクラスメイト。私にいやなことばかりを言ってきた。
でも、私はもう気づいている。
職場体験のときの子ども想いだった月の行動。紅茶をくれて私を慰めようとしてくれた優しさ。
怒って暴れてしまったことはいけないことだけど、ガスの失敗でみんなが私を責める流れだったのに、それはちがうと言ってくれた彼の正義感。
本当は蘇轍月という人は、誰よりもまっすぐで優しい心の持ち主なのではないかと、私はもう気づいている。
教室の扉が、静かに開く。
「なんで、お前がまだいんだよ」
生徒指導室でみっちりと先生に説教された月が、だるそうな顔をして教室に入ってきた。
ありがとうと言わなければ、さっきまでそう思っていたのに。心に決めたのに。
彼の顔を見たら、なぜかうまく言葉が出てこない。
心の中でわたわたしているだけで、なにも話せずにいる私の近くに来て、「無視かよ」と月が呟く。
ちがう。本当は無視したいわけじゃない。
「なんだよ。むすっとした顔しやがって」と、月が私を覗きこむ。
その瞬間、呼吸が荒くなって自分の心臓がどきどきと鳴っていることに私は気づいた。緊張しているのか、私。しっかりしろ。
「でも、ありがとな。先生から聞いたよ。お前、俺が退学にならないように庇ってくれたんだろ。先生が退学に絶対しないって言ってくれたよ、暴れたことはこっぴどく怒られたけどな」
月の口から退学にならなかったという言葉が出て、安堵のあまり私は緊張の糸が切れた。
ぶわっと目から大粒の涙があふれて止まらなくなる。
泣きたいわけじゃないのに、言いたいことが私にはあるのに。嗚咽するだけで言葉が出てこない。
「は!?お前なんで泣いてんだよっ」と驚いた顔をした月だったが、すぐに自分の学生鞄からポケットティッシュを出して、私の頬につたう涙を優しくふいてくれた。
「づき…。んきっ。あのね…」
必死に言葉で伝えようとするけど、嗚咽のせいうまく喋れない。
嗚咽する私の背中を、月はなにも言わずに優しくさする。
しばらく、そのまま背中をさすってもらい、落ち着いてくると今度はまた心臓がどきどきと高鳴ってきた。
これは泣いていたから、呼吸が荒く脈が早くなったのではない。どうなっているんだ、私。
心臓の鼓動が激しすぎて、目の前の月に聞こえてしまわないかと心配になるほどだ。
頬が熱い。私は、今絶対に顔が真っ赤になっている。恥ずかしい。
そうだ。私は今まで生きてきた人生で、男の子に涙なんてふいてもらったことなかった。背中だってさすってもらったことがない。こんなに優しくされたことなんてない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
こんな目の前に男の子がいて、すぐ顔を上げたらキスできてしまいそうな、こんな経験を私はしたことがない。
なんだろうこの気持ち。嬉しくて。恥ずかしくて。月の顔が見れない。
「朝陽、落ち着いたか?」
そう言われたので、うつむいたままでいるのも変だと思って顔をあげて月を見る。
金髪の髪、色白の肌、しゅっと整った輪郭、きりっとした目つき、そして私を見つめる硝子玉のような綺麗な瞳。
どうしよう。私には、月がいつもより格好良く見えてしまう。だらしないと思っていたルーズに開けているシャツから見える鎖骨までセクシーに見えてしまう。
いや、前から彼はクラスの女子たちからイケメンと言われていた。だから、もともと顔は良かったのか、でも、前はここまでイケメンには見えなかったのにーっ。
いつもの見慣れた仏頂面のただの月なのに、今日はものすごく格好良く見えてしまい、私は困ってしまう。
でも、気づいたことがある。月の頬もほんのり桃色になっているのだ。
どきどきしているのは、もしかしたら月も同じなのかもしれない。でも私のかんちがいだったらどうしよう。
顔をあげたら、キスができてしまう距離。
恋愛経験など、まったく皆無な私にはどうしていいかわからない。
そのとき、教室のドアがいきなり開く。
私と月は、ほぼ同時にぱっと離れる。
「カルピス買ってきたよぉー!今日は本当にごめんよ。俺からのお詫びの印っ!三本買ってきたら一緒に飲もう!」
達也君が笑顔でカルピスを三本持っている。
「あれ?なんか月、顔赤くね?どうしたんだよ」
月が無言で達也君の肩を殴る。
「いってぇ。なんなんだよ。怒ってんのか、月?ごめんってー。ところで、月の顔赤くね?」
「うるせえ達也っ」
「いってえ。ちょ、お前っ、殴んなって。三人でカルピス飲もうぜ。機嫌直せよ」
なんだか、そのやりとりが妙に面白くって、私が吹き出すと月と達也君もつられて笑った。
「月、ありがとね」
笑ってほっこりしたおかげで、ずっと伝えたかった感謝の言葉が口からすっと出たきた。
「ん?ああ。こっちこそな」
「カルピス買ってきた俺にもお礼言えってー」
「もともと、お前が原因でこんなことになったんだろうが!」
「えへへ。すまねえ」
夕方。オレンジの夕日が差し込む教室で、しばらく三人で大笑いしたあと家に帰った。
なんとか、これで学園祭が終わった。