お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
 私が住む東堂時計の社員寮は、本社ビルのある高級ショッピング街から電車で三十分の下町の風情が残る街にある。

 社員寮といっても、会社が単身者向けのマンションを一棟借りあげているので、実際にはふつうのワンルームと変わらない。
 派遣社員から正社員に登用されたのと同時に引っ越したから、もう三年ここに住んでいる計算だ。
 嬉しいのは、バストイレ別になっていることと、会社から家賃補助が出るので築浅の物件のわりに破格の値段で借りられること。

 そのおかげで毎月、微々たる額ではあるけれど弟の学費の足しにできている。これ、重要。だって弟は私大医学部に通う大学生なのだ。

 弟が学費の高い私大を志望したのは、その系列病院に日本でも数少ない、母が患っていた珍しい病気の専門医がいたから。弟は、その医師に指導を受け、いつか母とおなじ病気の患者を助けたいのだと熱っぽく語っていた。
 いま思えば、ほかにもその医師に教えを乞う方法はあったかもしれない。けれどそのときはまだ生きていた母も私も、系列の大学に進学するのが近道だと信じて疑わなかった。だから(もろ)()を挙げて応援した。

 だけど私が派遣社員として働いていた二十一歳のときに母が他界して、初めて授業料の請求書を見たときには愕然としたっけ。
 それでも、弟の夢を応援する気持ちは今も変わらない。目下の楽しみは、弟が無事に医師になること。それだけ。

 夜九時。帰宅した私は、作り置きしていた鶏もも肉と茄子の甘辛煮とほうれん草の白和えで簡単に夕食を済ませてお風呂に入ると、ベッド脇にあるチェストの一段目から一枚の紙を取りだした。

【雇用契約書】

 乙は私。緊張していたのがありありとわかる、ぎこちない署名だ。
 反対に、甲のほうは堂々として迷いのない筆跡。東堂時計ではなく――東堂嶺。新社長その人の署名だ。
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