お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
「でも、この前は危うく華枝機械にも被害を及ぼすところでしたよね。あのときは私が、機密文書が紛れていることに気づいたからよかったものの……。いつまたあんなミスをされるかと思うと、目が離せません」
「……本気でそう思うのか?」

 無意識に声が鋭くなる。

「ええ、もちろん。社長も迷惑をかけられてはお困りになるでしょう? 実は、あの件を受けて本人から相談されたんです。自分には社長秘書は荷が重いから、代わってほしいと……ひょっとして様子がおかしいのはそのせいではないでしょうか」

 あり得ないではなかったが、腑に落ちない。
 知沙には自ら積極的に学ぶ姿勢がある。一度のミスで、そこまで思いつめるとは考えにくい。
 彼女なら、ミスをなくすべく努力するほうを選択するはずだ。
 ではなぜ笠原はそのような嘘をつくのか。彼女は文書の件についても、致命的な発言をした。
 知沙が頼りにする先輩だと聞いていたが、事はそう単純ではないのかもしれない。

「だとしたら、羽澄さんに正しく伝えなければならないな。彼女の能力には非常に満足している。だからこそ、悩みがあるなら力になってやりたい」
「ずいぶん彼女を買っておられるんですね。……そのお気持ち、私からも羽澄さんに伝えておきますね」

 笠原のお辞儀はにこやかに見えて、その実、暗く粘ついたものを感じずにはいられない。
 うすら寒いものを覚えたとき、机上のあるものが目に留まった。

「その万年筆、羽澄さんがなくしたものとそっくりだな」

 桜色のボディー。知沙のイニシャルである、Cの刻印。

「え……ええ、それ、羽澄さんから借りたんです。あとで返しに行きますね」

 かすかにうろたえたように見えたが、笠原はすぐに笑みを貼りつける。重ねられた嘘に、腹の底から静かな怒りが膨らんだ。

「なるほど、ではもうひとついいか。君はなぜ、あの書類が華枝機械に関する機密文書だと知っている?」

 笠原は知沙の作業中、件の文書の混入に気づいて彼女から書類を取りあげた。そしてその足で俺のところへ知沙のミスを報告にきた。中身を読む暇はなかったはずだ。
 しかも書類は専務自身が作成したドラフトで、俺も初めて見るものだった。知沙も当然、内容は知らなかった。

「君があの文書を専務の部屋から持ち出して、故意に紛れこませた。そういうことではないのか?」

 笠原の顔がみるみる蒼白になるのを、俺は黙って見守った。
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