お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
 好きな人がいて、その人がなんでもない食事をともにしてくれる。目の前でおいしいと言ってくれる。
 そんな幸せがあることを、もう長いあいだ忘れていた気がする。
 と、先に食べ終えた嶺さんと目が合った。

「やっと俺を見たな。ここのところ、俺と目を合わせなかった」
「っ、そんなことは」
「ないか? 俺では頼りにならないのかと、自分が()()()なかった」
「……っ、違うんです。私が悪くて」

 私は食欲のないままにお箸を置いた。話せば、嶺さんはどんな顔をするのかな。それを思うと怖い。
 契約書の紛失も、その内容が伯父さんに漏れたことも、それをネタに強請られていることも。
 応じなければ嶺さんに迷惑がかかり、応じて大事な日をすっぽかせば、秘書としても妻としても嶺さんの信頼を失うことも。
 でも、突き放したわけじゃないことだけは知ってほしい。

「その……創業記念パーティーのことなんですが」
「不測の事態でも?」
「いえ。準備は滞りなく進んでいます。ただ……ごめんなさい。外せない用事ができてしまい、当日は嶺さんのご家族との顔合わせも含めて欠席……させてください」

 声が細くなってしまう。私は唇を噛んだ。

「理由は?」

 嶺さんはいたって普段どおりだった。穏やかで落ち着いた声。気分を悪くしたり、私を(とが)めたりする様子もない。
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