お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
 笠原さんが乾いた笑いを零した。

「だからよ。私が社長秘書になるものと疑いもしてなかった。それを、これまで役員付の業務をしたこともない後輩に取られたんだもの。私のほうが経験もある、能力もある。なのにわけがわからなかった。許せなかった。……だから嘘もたくさんついたわ」

 自嘲めいた小さな笑みを浮かべて、笠原さんが顔を上げる。
 膝の上で揃えられた指先は、いつかとは違って上品なパールピンクで美しく飾られている。
 笠原さんの同期だという人の言葉も、社長のサポートをしているという話しも、嘘だった。だけどそれらの嘘については、怒りよりもやるせなさのほうが大きくてなにも言えなかった。

 けれど、契約書については決して許せるものじゃない。
 私はともかく、結果的に嶺さんを窮地に追いこむような行為だからだ。

「すみません、笠原さん。私……今はまだ、笠原さんを許すことはできません」

 経営企画室に配属された当初から指導してもらったのに、たったひと言「もういいです」と答えられないなんて。
 自分で自分が嫌になる。契約書も無事に返ってきたのだから、笑って許せばいいだけなのに。
 でも私はどうしても、笠原さんに笑顔を返すことができなかった。笠原さんが形のよい眉をきゅっと申し訳なさそうに寄せて出ていく。
 私はしばらく応接室で呆然としていた。

「あ、でも……」

 ふと気づいて契約書を手にとる。間違いなく私が受け取った原本だ。
 ということは……。
 私は勢いよく立ちあがった。
 行かなきゃ。今すぐ。
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