お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう

     *

 以前、知沙と部屋を利用したのとおなじホテルのラウンジは、平日の昼間だというのに喧噪に包まれていた。
 大半が観光客のようだったが、なかでも年若い客が目立つ。少し考え、世間では夏休み期間かと思い当たった。この様子なら、多少荒っぽい会話になったとしても周囲に聞かれることはなさそうだ。俺は入ってすぐ、視線をめぐらせる。
 一度会っただけだが、その不快な顔は遠目にもはっきりと認識できた。
 席に案内しようと迎え出たラウンジのスタッフを視線で制止して、俺は窓際の奥まったソファ席に近づく。

 羽澄は入口を見渡せる側に座っていた。白のTシャツにベージュのチノパンというシンプルな格好が、かえって気取って見える。羽澄は俺が前に立つと、片眉を吊りあげた。

「おかしいな、君を呼んだ覚えはないんだがね。知沙はどうしたのかな」

 羽澄の物言いはあくまで紳士的でやわらか。おそらく、知沙の前でも優しい伯父を演じてきたのではないか。ただ、その口調や態度の端々に傲慢さがにじんでいる。知沙もそれを感じ取ったからこそ、警戒してきたのに違いなかった。

「妻はここには来ませんし、来させません」

 窓際のソファ席に腰を落ち着け、コーヒーをふたつ注文する。羽澄はソファに深く沈むと足を組んだ。開き直ったのだろう。
 俺は運ばれてきたコーヒーに口をつけてから、さっそく本題に入った。

「妻からすべて聞きました。前回、お会いした際にも私が同席すると申しあげたはずが、ご理解いただけなかったようですね。妻を呼び出したのは、援助だと言って渡したはずの金を回収するためだとか。理由にも驚きを禁じ得ませんが、なにはともあれ、二度と妻を呼び出さないでいただきたい」
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