お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
 社長さん、と羽澄がねっとりとした口調で遮る。

「私と知沙はね、家族同然なんですよ。知沙は気立てのいい子でね。母親のいない夜に訪ねていくと、よく私にも夕飯を作ってくれました。私はあの子が懸命にさやを向いて炊く豆ご飯が好きでね。うまいと言うと、旬なんか関係なく年じゅう作ってくれたものです」

 内容だけなら、父を失った母子家庭を見守る親戚とのあたたかい交流だ。
 だが羽澄の目に浮かぶのは、自分より弱い知沙を恐怖で支配することで自尊心を満たしてきた、歪んだ自己愛だけ。

「その関係は、知沙に恋人ができようが結婚しようが一生変わりません。私と知沙だけの関係だ。社長さんが割って入る余地はないんですよ」
「それは妻が羽澄さんを慕う場合にのみ成り立つ関係です。そしてはっきりと申しあげますが、彼女はあなたを必要としていない。ここに彼女の姿がない事実が、その証拠です」
「……金で妻を買った社長さんは、必死ですね」
「なに?」
「そのままの意味ですよ。知沙から雇用契約書が流出したと聞いて、焦って来たんでしょう? あれが外部に出ると、社長さんは大幅なイメージダウンを免れないですからね。社員に背を向けられるどころか、下手すれば企業イメージにもマイナスだ。まあ私はかまいませんよ、お金を出すのが社長さんでも。額はそうですね……月百万、それで手を打ちましょう。社長さんなら端金ですよね? 妻という戸籍を買っただけの社員に特別手当を毎月払えるくらいですから」

 ようは、雇用契約書の存在を黙っていてやるから金を出せという脅しだ。
 それが脅しにすらなっていないことに、羽澄は気づいていないらしい。

「……そうですか。あなたがおとなしく引き下がるのであれば、知沙や昴君の唯一の血を分けた身内でもありますし、今後一切の知沙への接触を断つことを条件に見逃すつもりでいたのですが」

 俺は羽澄と座ったソファ席から入口のほうをふり向き、スマホをワンコールさせる。三つ向こうの席に座ったスーツの男が顔を上げた。
 男は俺たちの席までやってくる。羽澄に会釈して名刺を出した。

「初めまして、東堂時計の顧問弁護士をしております不破と申します」
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