お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
「……どうも」
「本来ならば最初から同席させてもらうところですが、社長が相手は奥様のお身内だからとおっしゃいましたので失礼しておりました。ここからは僕も同席いたします」

 不破が俺に物言いたげな顔をしてから隣に腰を下ろす。自分があとを引き取るという意味だと察したが、俺はあえて不破を制止して口を開いた。

「さて、羽澄さん。あなたにひとつ言っておきたいことがあります。あなたとの交渉が決裂した際に備え、先ほどの会話は録音しています。あなたは私を脅したのではなく、会社を脅した。……その上で言いましょう。あなたの脅しは私には効きません。バラしたければ、バラせばいい」
「な……っ」

 羽澄が絶句する。それまで優位にいた余裕の浮かんだ顔から、血の気が引いていく。

「私のイメージ? そんなものは、妻に比べたら毛ほどの価値もないんですよ」

 不破に目配せすると、不破が足元の黒い鞄から封書を取りだす。受け取って中身を取りだした。羽澄の目が驚きを貼りつけたまま書類に吸い寄せられる。

「あなたもご覧になったのでおわかりかと存じますが、知沙と交わした雇用契約書です」

 それは三年前、知沙をまだほとんど知らなかったときに交わした契約。
 彼女の両親の墓前で一度会ったきりで、帰国してやっと近くにいられるようになった。
 秘書としてだと頭ではわかってはいたが、誰よりも近くで気にかけられ誰も気づかない変化に気づかれた。寄り添われた。
 いつしか、知沙の前では気を抜いていられるようになった。
 好きにならないはずがなかった。
 離婚を切りだされ、なんとか回避しようと柄にもなく焦って外堀を埋め、一緒に生活して……。
 やっとのことで手に入れたのだ。
 この男が原本を入手していようが、それを社内外にばらまこうが、関係ない。

「私は」と切りだしかけて言い直す。

 対外的に宣言するためではなく、まして羽澄に牽制するためでもなく、ただ心からの気持ちを言葉に乗せた。

「俺は、知沙を愛している」

 俺は羽澄の目の前で、契約書を破った。
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