お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
     *

 ――愛している、の短くもたしかな響きに、駆けつけたばかりの頭がじんと痺れた。
 胸のいちばんやわらかな、誰にも明け渡したことのなかった場所に、嶺さんの言葉がゆっくりと染みこんでいく。
 揺らぎのないそれが、私の細胞の一つひとつにぬくもりをくれる。
 体じゅうが多幸感に包まれて、うなじの毛がそわつく。
 一拍置いてわれに返ると、とたんにどっと心臓から血が全身に送りこまれた。
 タクシーを降りて走り通しだったから、膝もがくがくと震えたまま。
 はあっ、はあっ、と肩で大きく息をすると、気配に気づいたらしい嶺さんがソファ席のすぐ後方をふり返った。

「知沙……」
「嶺さ、わた、私……」

 目を見開く嶺さんを前に、言葉がもつれて出てこない。隣に座っていた不破さんが席を譲ろうとしてか腰を上げるのを、私は手振りで遮った。

「どうしてここに? パーティー会場に先に入っているように指示したはずだが」

 叱責ではなくて純粋な疑問だと口調でわかったから、思わず笑みが零れた。私が視線を嶺さんからテーブル上の契約書に移すと、嶺さんが珍しくばつが悪そうにした。

「君の合意を得るのが先だとは思ったが、勝手なことをしてすまない。だが、俺はずっとこうしたかった」
「嶺さん、待って」

 私はいつものごとく大量の物を詰めこんだ仕事用のショルダーバッグから、クリアファイルに入った書類を取りだす。バッグを足元に置くと、伯父さんに近づいた。

「笠原さんが今朝、返してくれました。伯父さんは原本も手に入れようとなさっていたようですが、渡すのは思い留まったと打ち明けられました。……この契約書は二部ですよね? 不破さん」
「ええ、社長と奥様でそれぞれ一部作成しております。ほかにはございません」

 不破さんのほうをふり向いて尋ねると、穏やかな口調で肯定された。私はほっとしつつ伯父さんに向き直る。

「伯父さん、もう私とは関わらないでください。私は、嶺さんの……東堂嶺の妻です。伯父さんが嶺さんや東堂に害を及ぼすなら、私は黙っていません」
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