お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
「まさか、君が来るとは思わなかった。あの男と正面から対峙するのは負担だっただろう。よく耐えたな」
「原本が戻ってきたのを早く伝えなきゃと思ったんです。ひょっとしたら、伯父さんが手元にない事実を隠したまま嶺さんに迫るんじゃないかと、夢中でタクシーに飛び乗って……それに、嶺さんにすべて任せてしまうのは違う気がして」
「夫婦の問題だと言ったはずなんだがな」

 嶺さんが優しく苦笑すると、先に下りエスカレーターに乗った不破さんに続いた。私もすぐうしろに続いてエスカレーターに乗る。

「だからです。夫婦の問題だから、私も来たんです」
「知沙……」

 一段下から、嶺さんが私をふり返る。
 普段は私より頭ひとつ分は目線の高い嶺さんだけど、今はおなじ高さだ。鼓動が走り始める。
 これまでは伯父さんに立ち向かうなんて、とてもできなかった。そのくせ逃げることもできずに、ただ身をすくめて伯父さんとの時間をやり過ごすだけだった。
 そんな私に嶺さんが自分を呼べと言ってくれて、初めて怖いと打ち明けることができた。
 でもただ助けを求めるだけじゃなくて、私も嶺さんのそばで乗り越えたい――そう思えたのは、嶺さんの隣で初めて私は私になれると知ったから。
 嶺さんが、私に欠けていたものをくれたから。
 間近で見ても、嶺さんの顔立ちは端整だ。なにより、涼やかな目がいつになく熱っぽい。嶺さんが求めているのは私だと、否定のしようもなく伝わってくる。
 胸がきゅうっと甘やかに鳴って、愛おしさがあふれそう。
 いつもは首を傾けて顔を寄せる嶺さんが、今日はまっすぐ私に近づいてくる。

「これでやっと、本物の夫婦だ」

 唇の表面を軽く食むような、ぬくもりを移すだけのキス。
 不破さんがふり返ったらどうしよう、なんて思うまもなかった。
 嶺さんの唇はすぐに離れていったけれど、私の唇はいつまでも甘い熱を残したままだった。
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