お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
 遅れて、心臓がドッと騒ぎだした。腰は、抱えられたまま。

「不意打ちは、困ります……」
「俺から見れば、そうやってかわいくはしゃがれるほうが困る」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。景色そっちのけで、知沙を見ていたくなる」
「……っ、そ、そういえば笠原さん、退職されるって」

 蕩けそうなまなざしの威力に耐えきれず、逃げるようにして話題を逸らすと、嶺さんが表情を真剣なものにあらためた。

「ああ、聞いたのか。本人とも同意して、今月いっぱいにした」
「もしかして、私が許せないって言ったから……?」

 契約書を返されたときの、もやもやとした気持ちがぶり返す。あの感情を私が押し殺していれば、笠原さんが辞めることはなかったのかもしれない。

「個人の感情は関係ない。彼女は窃盗犯だ。信頼関係が失われた以上、雇い続けることはできない。父……前社長も同意見だ」

 経営者としての判断であれば、私が気を揉んでもしかたがない。でも眉を曇らせたのに気づかれたようで、嶺さんが私の腰を抱く腕に力をこめた。

「だが本人も反省していることを踏まえ、(ちょう)(かい)(めん)(しょく)ではなく本人の自己都合による退職という形にした」

 それなら、再就職も難しくないはず。笠原さんが新しい場所で、生き生きと働いてくれることを願う。今はまだもやもやした気持ちがすべて消えたわけじゃないけれど、思わずほっと息をついた。

「時間が経ったら、きっと笠原さんともまた前みたいに話せますよね」
「ああ。……知沙は優しいな」
「そんなこと。私は、謝罪すら受け止められなくて」
「自分を押し殺して、物分かりのよいふりをされるよりよほどいい。俺は知沙の、素の感情を見たい。……ああ、いいものがある」

 腰に回されていた手が離れ、テラスのソファを勧められる。おとなしく座ると、嶺さんが手荷物から白いリボンをかけた赤い小箱を取って戻ってきた。

「開けてみて」

 受け取った箱を前に、心臓が跳ねる。かと思うと一気に鼓動が高鳴りだした。
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