お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
『ああよかった。実はここだけの話ですが、支社長は少々厄介な縁談を押しつけられていたんですよ。支社長に変わってお礼を申しあげます』

 私のほうこそ、この結婚で私からも差し出せるものがあると知って気が楽になった。なんとなく、私にばかりメリットがあるように思っていたから。主にお金の面で。

 けれど雇用契約書に目を通したとたん、血の気が引いた。

『……前に提示された額より、お手当が増えてませんか!? いくら東堂家のご子息でも、この額は』

 妻という立場を引き受ける対価である特別手当は、月五十万。
 こんなに高額なお金、とてもじゃないけれど受け取れない……!

『戸籍の変更を認めたのですから、もっとふっかけてもいいくらいです。ご自分の人生を軽く考えないようにと、支社長からも念を押されております。堂々と受け取ればよろしいのです』
『……っ』

 頭がくらくらしてきた。週五日、フルタイムで働いても、派遣社員の手取りはマンションの家賃と食費だけでほとんどが消えてしまう額だ。
 それに引き換え、妻という肩書きがつくだけで五十万円。
 こんな額をポンと出せるなんて、住む世界が天と地ほど違うとしか思えない。

『受け取ってください。東堂はそれを望んでおります』
『っ、わかりました』

 契約書を持つ手が震えたけれど、ごくりと唾をのむ。覚悟はとっくに決めたのだから落ち着こう。落ち着かなきゃ。
 それに支払いの迫った学費のことを考えたら、助かるのも事実。
 手当の額に青ざめた以外では、契約書はごく真っ当なものだった。ざっくりいうとお互いに誠実であることを求めるものといったところだろう。
 双方、健康上の留意事項や借金、ギャンブル癖などの問題が発覚した場合には即座に契約無効となり離婚できると書かれている。
 ただ、契約は基本的に無期限で有効であり、離婚を希望する場合は双方の話し合いによって決定すること、と書かれていた。
 これなら、万が一なにかあっても円満に婚姻を解消することもできそう。

『婚姻届は僕が責任を持って提出しますので、判子だけいただけますか』
『あ……はい、お任せします。そうだ、以前に他言無用だとうかがいましたが、結婚した事実だけは弟に伝えてもかまいませんか? 唯一の家族なので、隠すのは心苦しくて』

 といっても、いきさつまで口にすればかえって心配をかける。だから、あくまでも結婚したという報告だけにするつもりだけれど。

『ええ、かまいません。支社長も、ご家族への挨拶は筋を通したいと申しておりました』

 不破さんの口ぶりでは、支社長は弟にも会ってくれるらしい。よかった。話をしたこともない相手だけれど、家族のことも尊重してくれそう。

 果たしてその言葉どおり、その約半月後、私は初めて東堂支社長その人と対面することになった。

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