お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
 支社長と訪れた場所は私の両親の墓前だった。
 夜の六時でも、五月の空の色はまだ水色をたっぷりと残している。風は肌寒かったけれど、気持ちのいい季節だった。
 淡いピンク色の花弁が、墓石にちらちらと散っていた。桜ももう、ほとんどが葉桜だ。
 支社長はスーツ姿のまま、地面に膝がつくのも厭わずに墓前で長いあいだ手を合わせていた。
 おなじように手を合わせる。先に目を開けると、隣に並んだ弟と目が合った。弟が私に向かってにかっと笑い、親指を立てて耳打ちする。

『姉ちゃんの夫、いい人じゃん』

 弟を騙すみたいで申し訳なくなったけれど、同時に胸がくすぐったくなる。
 結婚前に一度は会っておきたいと思ったのは事実だけれど。

 ――まさか両親にも挨拶したいと言ってくださるなんて。

 手を合わせる支社長の隣にはキャリーケースがある。香港支社から直接、両親の眠る墓地まで来てくれたのだ。

『急で悪かった。昴くんも、時間を作ってくれてありがとう。会えてよかった』
『いえ、おれも義兄さんに会いたかったんで。姉ちゃん、恋人がいるってひと言も言わなかったから』
『驚かせてすまない。お姉さんは、私の立場を考えて黙っていてくれたのだろう』
『姉ちゃん、父さんが死んでから母さんやおれを優先して、なんでも我慢してきたから。義兄さん、姉ちゃんをどうか幸せにしてください』

 弟の心遣いが嬉しいだけに、うしろめたさがこみあげてくる。いたたまれない。
 だけど目を伏せる私と反対に、支社長の声は力強かった。

『もちろんだ。不自由はさせない』

 絶妙に嘘はついていないのが大人の対応だけど、誠実だとも思う。
 これがもし、幸せにするだなんてその場しのぎの発言だったら、ますます弟に申し訳ない気持ちになっただろうから。
 形だけの夫でも。この先、夫婦として振る舞うことがまったくなくても。

 この人が相手なら、後悔しない。
 弟に嘘をつく罪悪感が、ほんの少しだけ……軽くなった気がした。
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