お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
二章 お別れ、しましょう
 ――いけない。昔を思い返してぼんやりしてしまった。
 われに返り、運転手に言って料亭の前に車を移動させる。私が車を降りて五月も下旬の生ぬるい風を深く吸いこむのと、女将の見送りを受けて社長が敷石を歩いてくるのはほぼ同時だった。
 社長は出迎えの挨拶にうなずき、ジャケットを脱ぐと後部座席に乗りこんだ。ところが私が助手席のドアを開けようとすると止められた。

「隣に座ってくれ」
「……では失礼します」

 内心おっかなびっくりで社長の隣に座ると、お酒も飲んだだろうに涼しげな顔を崩さない社長が私のほうを向いた。

「食事はしたか?」
「いえ、お腹があまり空かなくて……」

 空かないと言ったそばからお腹がぐう……と空腹を訴え、私は思わず悲鳴じみた声を上げてしまった。

「すみません、お耳汚しをしました」
「いや、羽澄さんは腹の音も絶妙なタイミングだな。ちょうどいい、なにか食おう。正直に打ち明けると、俺も物足りなかった」

 社長は、プライベートでは自分のことを『俺』って言うんだ……。
 三年前に一度だけ顔を合わせたときは『私』だったから、知らなかった。常に理性的な態度を崩さない社長の、私的な一面。

 別に〝私〟でも〝俺〟でもかまわないはずなのに、なぜだかそわそわする。
 もしかしてそれは、これから彼のプライベートを深く知っていく予感だったのかもしれない。
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