お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
 俺たちは、休日の夕方らしく人でごった返す駅の改札を抜けた。俺自身は迎えの車で空港から香港支社にとんぼ帰りする予定だったが、知沙たちを見送るためだ。
 弟の昴君はそのころ、祖父母の家を改築したという学生専用のシェアハウスの一室を借りていた。三人で暮らしていたアパートより、そちらのほうが大学に近かったからだ。だから知沙は、アパートにひとりで住んでいた。
 先に昴君を見送ったあと、俺は知沙と別の路線のホームに向かった。

『今日はお忙しい中来てくださって、ありがとうございました』

 ホームに降りる階段で、知沙は深くお辞儀をした。丁寧な仕草だった。

『いや、こちらこそ昴君を騙すようなことをさせてしまったな』
『いいんです。私が独身のままだったら、心配させたでしょうから』

 知沙はなにかを思い出したかのように、ベージュのショルダーバッグをごそごそと探り始めた。やけに大きなバッグだ。

『社長、これ……よかったらどうぞ』

 白地にクローバーの柄が描かれた、よくあるペットボトルとおなじサイズの水筒を差し出される。
 意図がわからず、俺はやや少女めいた柄の水筒に目を落とした。

『リラックス効果があるハーブティーです。あとはい、アイマスクもどうぞよかったら。気持ちいいですよ。そうだ、カイロも使いませんか? お腹をあたためるのも、よい睡眠には効果的らしくて――』

 大きなバッグからは、なぜそんなものを持ち歩いているのかと首をかしげたくなるものが次々と取りだされる。
 唖然としていると、知沙は『あっ』とわれに返った様子で早口になった。

『すみません……っ。激務のあいだを縫って、この用事のためだけに帰国なさるとうかがったものですから……せめて疲れの取れるお茶をフライト前にと思って用意を……でも、よけいなお世話でしたよね』

 知沙が気恥ずかしそうに水筒とアイマスクを下げようとしたので、俺はそうはさせまいとふたつを取りあげた。
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