お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
「そうそう。根をつめたところで、すぐに役に立てるわけじゃないんだから」

 通永さんに続いた笠原さんの言葉に、胸が小さくひりつく。けれど、私は笑顔をつくろって、テーブルを拭く作業に専念した。
 私と通永さんがテーブルを拭くそばで、笠原さんは剥げかけたネイルをイライラと(いじ)る。笠原さんのネイルはいつも完璧にメンテナンスされているのに、ちょっと珍しい。なにかあったのかな。
 私はふと、自分の手元に視線を落とす。
 たとえば私が爪を綺麗に手入れしたら。爪じゃなくても、たとえばメイクに手をかけたら。
 少しは嶺さんの目に留まるのかな。……って、なんてことを考えてるの。そんなことよりも目の前の仕事。
 椅子を元どおりに並べ、最後に会議室を見渡す。窓の外には曇り空が広がっていた。

「台風、接近してきたらしいわね」

 通永さんの言葉に、笠原さんも指先から目を上げる。

「この分だと、週末には電車が軒並み運休になりそうですよ。専務の予定もリスケが要りそう」

 私も頭を仕事に切り替える。昨日、嶺さんにあれだけ甘やかされて浮上させてもらったのだから、仕事でお返ししないと。
 でもどうして、嶺さんは私をあんなに甘やかしてくれるの。
 落ちこんだこともすべて意識から飛ぶくらい甘やかされたら、引き返せなくなるのに。
 そう思う時点ですでに引き返せなくなっていることにも気づかず、自席に戻った私は私用のスマホにかかってきた電話を取った。




 週末は、通永さんたちの話のとおり雨が降っていた。
 といっても、台風は微妙に進路を逸らしたため、その影響は予想より小さかった。アプリで天気予報を見る限りでは、あと数時間で雨も上がるようだ。

 伯父さんからの呼び出しに応じたのは、今度こそ最後にしてもらうため。だからここで怯んじゃいけない。
 待ち合わせ時間の十分前。私は前回とおなじ店内で大きく息を吸い、伯父さんに頭を下げた。

「お待たせしてすみません」
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