お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
 鏡の端にスタイリストさんが微笑むのが映ると、ますます気恥ずかしくて身を縮めてしまう。
 と、ソファから立ちあがった嶺さんが私の背後に立つ気配がした。
 鏡越しに嶺さんが頭を屈めるのが目に入る。耳元にあたたかな呼気を感じてうなじの毛が粟立った。

「似合っている。とても」

 耳打ちされた場所がじんと痺れて、じわじわと体温が上がっていく。私はおそるおそる顔を上げて鏡越しに嶺さんと目を合わせた。

「ほ、ほんとうにそう思ってくださいます?」
「ああ。いいと思う」
「……嬉しいです。大事に着ます」

 頬が熱くなったのがわかって、思わず両手で頬を挟む。
 嶺さんが微苦笑して、スタイリストさんにこのワンピースをそのまま着用すると告げる。スタッフがやってきて大量の服を持ち帰ると、にわかに緊張が膨らんだ。
 嶺さんと、広いスイートルームにふたりきりになったから。

 私が緊張したのに気づいたのか、嶺さんが私をソファに座るよううながす。いつのまに頼んでいたのか、ほどなくルームサービスで飲み物と軽食が運ばれてきた。
 私を気遣ってか、ひと口サイズにカットされた数種類のサンドウィッチに見た目も鮮やかなピンチョスが並んでいる。それを見たら急に空腹を自覚した。そういえば朝からなにも食べていない。
 私はありがたく頂きながら、伯父さんとの件を打ち明けた。

「――父が亡くなってから、母子三人だった私たちの家を伯父がよく訪ねてくるようになりました」

 アイスコーヒーを口にした嶺さんが、無言で先をうながす。私は背中を押された気分で続けた。

「いつも私と弟に対して生活に不自由はないかと気遣ってくれました。いい伯父だと思ってたんです。でもそのうち……伯父は私が意に沿わないことをすると物に当たるようになりました」

 訪問時に私が不在だったり、伯父さんがいるときに友達から電話がかかってきて私がそちらを優先したり。そんな些細なきっかけで、伯父さんは怒りを爆発させた。
 未成年の私に恐怖心を植え付けるにはじゅうぶんだった。
 私は思いきって母に相談した。母がなにか言ってくれたのか、しばらくは平穏な生活が戻った。
 けれど、短大に進学してすぐ。

「伯父から電話がありました。入学祝いを渡したいと言われて、大学近くのカフェで会いました。そのときに学費は伯父が出してくれたことを知りました。それから……ときどき呼び出されるようになりました」
「それが今も続いていた、ということか?」
「……はい。身内ですし、学費を出してもらった負い目もあって断り切れなくて。でも、会うたびに息苦しさがあって……」

 思えばいつ激怒するかと、常に顔色をうかがっていた。
 パンツを履いていったときの一件を口にすると、嶺さんの顔が剣呑になる。
 けれど嶺さんはすぐに表情を優しくした。

「知沙は、ひとりで耐えてきたんだな」
「っ……」
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