お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
「営業部の若い部長が、君を熱っぽく見つめていたのを見かけた」

 突然、なんの話だろう。それに、まったく身に覚えのない話だ。

「パントリーで話しかけられていただろ。彼はまだ二十八らしいな。君に気があるのは明らかだった」
「ええ? まさか。私みたいに地味な女をそんな目で見る人なんて、いるわけないですよ。それにそれがなにか……」

 笑い飛ばしかけた私は、嶺さんに腰を引き寄せられた。強引なキスを浴びせられ、息が上がる。

「知沙は、自分の魅力を自覚したほうがいい。俺のいないあいだに、ほかの男を引き寄せられては困る。やはり指輪が必要だな。遅くなったが、結婚式も挙げよう」
「本気ですか……?」
「嫌か?」

 困惑して視線を落とす。嫌じゃない。嫌なんじゃなくて。

「俺の前で本心を隠さないでくれ」
「違うんです。嬉しくて……こんな幸運が私に起きていいのか怖くなったんです」

 弟が希望どおり医者になるのが私の幸せだと思っていたから、ほかに幸せが訪れる可能性を考えもしなかった。だから、形だけの結婚もにも抵抗がなかった。
 でも、嶺さんに切なげな目で好意を告げられて、逞しい胸に受け止められた。それが、怖いくらい幸せで。
 それだけでじゅうぶんなのに、ふつうの夫婦がするように結婚式まで挙げようだなんて。

「怖がる必要はどこにもない。むしろ俺は、もっと早く君との距離を近づける努力すればよかったと悔いている。そうすれば三年間、君をひとりにさせずにすんだ」

 香港支社での、いつ倒れてもおかしくないほどの激務を思えば、実際にはどうすることもできなかったはず。
 それでも、嶺さんがそう言ってくれる気持ちが嬉しい。

「指輪も、式も。俺は、知沙ときちんと始めたい」

 そうやって誠実に気持ちを示してくれる人だから、私は嶺さんを好きになったんだろうな。
 だから、きっと。どんな反感を買っても大丈夫。

「私も初めからやり直したいです。だから、式とか指輪の前に……ひとつだけ」

 私が気がかりを伝えると嶺さんは目を見張った。でも、私の提案を喜んでくれた。
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