お久しぶりの旦那様、この契約婚を終わらせましょう
「あら、初耳? 社長も知沙ちゃんの努力は感じているからこそ、言わなかったのかもしれないわね。お気持ちを尊重して、知らないふりをしてあげて」
「でも」
「大丈夫、私が請け負ったのは経営計画の策定補佐とか、そんなところよ。知沙ちゃんの業務とは被らないでしょ? だから気にしないで、困ったときは助け合わないと」
「そうですが……」

 チョコレートを頬張る笠原さんから、私は視線を落とした。
 私ひとりでは不十分。笠原さんの補佐が必要。……そうかもしれない。経営計画の策定だなんて、私にはきっと手に余る。
 だけど、嶺さんが私に言わずに笠原さんにサポートを指示したなんて……。

「それより」と笠原さんはフルーツ風味の水が入ったペットボトルに口をつけながら、話題を変えた。

「この暑いのにハーブティー?」
「……はい、冷え性なんです。エアコンもちょっと苦手で」
「そうなのか?」

 ぎょっとしてパントリーの入り口を見やると、通りがかったところなのか、嶺さんがパントリーに入ってきた。

「社長、お疲れさまです。今日もお忙しそうですね」

 笠原さんはいつのまにかチョコレートもペットボトルも片付けている。艶やかな笑みを瞬時に作れるのは、さすがベテラン秘書。
 それに比べて私はといえば、複雑な気分だ。
 毎日、長い時間を一緒に過ごしているというのに、嶺さんの姿が目に入るだけで心臓がとくとくと甘やかに鳴ってしまう。
 同時に、笠原さんの話も頭にこびりついていて、もやもやした気分を拭えない。

 ふと嶺さんと目が合ったら、嶺さんが一瞬だけ愛おしげに目を細めた。ここは職場なのに。でも……嬉しい。
 体温がじわじわと上がる。けれど動揺して思わず手で顔をあおぐ私と反対に、嶺さんはいたって平静だ。
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