片方だけのカフスボタン
ぬいぐるみ
おばあちゃんが入院しているのは6人部屋で、今のところベッドが1つだけ空いている。
割と高齢の人が多いけれど、おばあちゃんの真正面のベッドの人は、私とそんなに年齢が変わらなそうなお姉さんで、私と目が合うと会釈するくらいの仲だ。
表情が何となく暗いのは、病気のせいだから仕方ないけれど、もともとそんなに愛想のいいタイプではなさそう。
テレビ台の上に、犬かクマかよく分からない形のぬいぐるみを座らせているのが見える。
それは私にはあまり意味がないものだったけれど、おばあちゃんも同じようなタイミングでそれを見て、何かを思い出したらしい。
「もこちゃん、覚えてるかい?」
「え、何を?」
「ぬいぐるみ」
「ぬいぐるみ?」
「覚えてないかなあ。まだもこちゃん、3歳くらいだったもんね」
おばあちゃんは「何か」を1つずつ思い出して話そうとしているのが見て取れた。
だから焦りは禁物と思い、私も1つずつ丁寧に聞くことにした(“できた”孫である)。
「うん、それだけだとちょっと…」
「おばあちゃん、ひとり暮らししようと思ってさ」
「え?え?」
さすがに意味が分からず、こんな反応になってしまった。
おばあちゃんは退院後、そんなことを考えているってことなの?
「あー、ごめん。ええと、今から10年――もう少し前かな、もこちゃんが3つくらいの頃、ひとり暮らししようとしたことがあってね」
「そうなんだ。知らなかった」
「そうなんだよ。でさ、ある物件を紹介してもらって、内見っていうのかい?不動産屋の人の車に乗せてもらって、実際の間取りとか見せてもらうやつ」
「うんうん」
「そのとき、もこちゃんも一緒だったんだよね」
「えー?覚えてないや」
「だよね。そりゃあそうか…」
おばあちゃんの旦那さん、つまり私のおじいちゃんは、私が3つのときに亡くなった。
おばあちゃんはそれを機に、ひとり暮らしを始めようとしたらしいのだ。
もともとはおじいちゃんの家に、息子夫婦である私の両親が同居し、そこに私が生まれてという感じだった。
「家って、今住んでるトコっておばあちゃんの家のでしょ?」
「そうだけど、若い人たちだけで住んだ方が年寄りに気を使わなくていいだろうって思ってね。まだ子供も増えるかもしれないし」
気を使うおばあちゃんらしい話だが、何だかんだあってその話は立ち消えになり、それから10年以上、結局子供の数も増えず、私たちは4人で暮らしていた。
「で、それとぬいぐるみと、何の関係があるの?」
「そうだったね。内見したのは4畳半と6畳の一軒家だったんだけど、6畳間の方に掃き出し窓があって、天気のいい日だったから日当たりがよくて、もこちゃんはすごくはしゃいでたんだよ」
「ははは…」
記憶にないとはいえ恥ずかしい。非日常っぽさに浮かれていたに違いない。
「もこちゃはその頃、いつもお気に入りキツネのぬいぐるみを持ち歩いててさ」
「あ、ツネオくんくん」
「そうそう、そう呼んでたっけ」
たしかこの子の名付け親も、父だったはずだ。あの人は名付けばかりしてるな…。
父は特に深い意味なく呼んだのだろうけれど、私も気に入って「ツネオくん」と呼ぶようになった。ただし、正しく「ツネオ」と発音できていたかは覚えていない。多分「チュネオ」などと言っていたような気がする。
「お部屋をひと通り見て帰ることになったとき、もこちゃんがツネオくんを6畳間の真ん中に置いていこうとしたんだよ」
「へ?何で?」
「さあねえ。『ツネオくんがここにいたいって』みたいなことを言っていたかな?」
「えー、何だそれ」
怖い怖い怖い。聞こえちゃいけない声でも聞いた?
…なーんてことはないだろう。子供は体験サンプルが少ない割に想像力が豊かだし、そういうことを言いたがるものだ(と、家庭科の授業で習ったような気がする)。
「だからきっと何か意味あったんだろうって思って、借りるならその部屋かなって決めかけたんだけど」
「うん、そう思う気持ちはなんか分かるよ」
「いろいろあって、ひとり暮らしはしないことになって」
「いろいろ」については、おばあちゃんがせっかくボカしているのだから、突っ込まないでおこう。
父はもちろんおばあちゃんを引き留めたろう。
そしてもあんまり想像したくないけど、母は「私が追い出したみたいで世間体が悪い」とか言ったかもしれない(言いそうだ…)。
そういう私の両親の反応は簡単に想像できたので、おばあちゃんはこっそり部屋探しをしていたのだが、私が「私もお出かけしたい」と無邪気に頼んだに違いない。
そして、やっぱりあまり想像したくないけれど、おばあちゃんの部屋探しが発覚したのは、私が何かうっかり口を滑らせたから…みたいな可能性もゼロではない。
何気ない昔話のコワイところはここだ。
話していくうちに、何となく思い出したり、「こういうことだったんでは」みたいな心当たりに行き当たったりする。
割と高齢の人が多いけれど、おばあちゃんの真正面のベッドの人は、私とそんなに年齢が変わらなそうなお姉さんで、私と目が合うと会釈するくらいの仲だ。
表情が何となく暗いのは、病気のせいだから仕方ないけれど、もともとそんなに愛想のいいタイプではなさそう。
テレビ台の上に、犬かクマかよく分からない形のぬいぐるみを座らせているのが見える。
それは私にはあまり意味がないものだったけれど、おばあちゃんも同じようなタイミングでそれを見て、何かを思い出したらしい。
「もこちゃん、覚えてるかい?」
「え、何を?」
「ぬいぐるみ」
「ぬいぐるみ?」
「覚えてないかなあ。まだもこちゃん、3歳くらいだったもんね」
おばあちゃんは「何か」を1つずつ思い出して話そうとしているのが見て取れた。
だから焦りは禁物と思い、私も1つずつ丁寧に聞くことにした(“できた”孫である)。
「うん、それだけだとちょっと…」
「おばあちゃん、ひとり暮らししようと思ってさ」
「え?え?」
さすがに意味が分からず、こんな反応になってしまった。
おばあちゃんは退院後、そんなことを考えているってことなの?
「あー、ごめん。ええと、今から10年――もう少し前かな、もこちゃんが3つくらいの頃、ひとり暮らししようとしたことがあってね」
「そうなんだ。知らなかった」
「そうなんだよ。でさ、ある物件を紹介してもらって、内見っていうのかい?不動産屋の人の車に乗せてもらって、実際の間取りとか見せてもらうやつ」
「うんうん」
「そのとき、もこちゃんも一緒だったんだよね」
「えー?覚えてないや」
「だよね。そりゃあそうか…」
おばあちゃんの旦那さん、つまり私のおじいちゃんは、私が3つのときに亡くなった。
おばあちゃんはそれを機に、ひとり暮らしを始めようとしたらしいのだ。
もともとはおじいちゃんの家に、息子夫婦である私の両親が同居し、そこに私が生まれてという感じだった。
「家って、今住んでるトコっておばあちゃんの家のでしょ?」
「そうだけど、若い人たちだけで住んだ方が年寄りに気を使わなくていいだろうって思ってね。まだ子供も増えるかもしれないし」
気を使うおばあちゃんらしい話だが、何だかんだあってその話は立ち消えになり、それから10年以上、結局子供の数も増えず、私たちは4人で暮らしていた。
「で、それとぬいぐるみと、何の関係があるの?」
「そうだったね。内見したのは4畳半と6畳の一軒家だったんだけど、6畳間の方に掃き出し窓があって、天気のいい日だったから日当たりがよくて、もこちゃんはすごくはしゃいでたんだよ」
「ははは…」
記憶にないとはいえ恥ずかしい。非日常っぽさに浮かれていたに違いない。
「もこちゃはその頃、いつもお気に入りキツネのぬいぐるみを持ち歩いててさ」
「あ、ツネオくんくん」
「そうそう、そう呼んでたっけ」
たしかこの子の名付け親も、父だったはずだ。あの人は名付けばかりしてるな…。
父は特に深い意味なく呼んだのだろうけれど、私も気に入って「ツネオくん」と呼ぶようになった。ただし、正しく「ツネオ」と発音できていたかは覚えていない。多分「チュネオ」などと言っていたような気がする。
「お部屋をひと通り見て帰ることになったとき、もこちゃんがツネオくんを6畳間の真ん中に置いていこうとしたんだよ」
「へ?何で?」
「さあねえ。『ツネオくんがここにいたいって』みたいなことを言っていたかな?」
「えー、何だそれ」
怖い怖い怖い。聞こえちゃいけない声でも聞いた?
…なーんてことはないだろう。子供は体験サンプルが少ない割に想像力が豊かだし、そういうことを言いたがるものだ(と、家庭科の授業で習ったような気がする)。
「だからきっと何か意味あったんだろうって思って、借りるならその部屋かなって決めかけたんだけど」
「うん、そう思う気持ちはなんか分かるよ」
「いろいろあって、ひとり暮らしはしないことになって」
「いろいろ」については、おばあちゃんがせっかくボカしているのだから、突っ込まないでおこう。
父はもちろんおばあちゃんを引き留めたろう。
そしてもあんまり想像したくないけど、母は「私が追い出したみたいで世間体が悪い」とか言ったかもしれない(言いそうだ…)。
そういう私の両親の反応は簡単に想像できたので、おばあちゃんはこっそり部屋探しをしていたのだが、私が「私もお出かけしたい」と無邪気に頼んだに違いない。
そして、やっぱりあまり想像したくないけれど、おばあちゃんの部屋探しが発覚したのは、私が何かうっかり口を滑らせたから…みたいな可能性もゼロではない。
何気ない昔話のコワイところはここだ。
話していくうちに、何となく思い出したり、「こういうことだったんでは」みたいな心当たりに行き当たったりする。