片方だけのカフスボタン
猪俣のおばあちゃん
猪俣トモコさん――猪俣のおばあちゃんというと、思い出すことがある。
私が中学生くらいだったと思うけれど、うちに遊びにきて、おばあちゃんの部屋でこたつに入ってテレビを見ていたとき、突然こんなことを聞いたのだ。
「ともちゃんはテレビまんが(アニメーション)とか好きかい?」
「えーと…『どきどきグッドナイト』は見てます」
私は中学生当時、アニメーションというものをあまり見ていなかった。
子供っぽいものが多いし、人気の俳優やアイドルが見られるドラマの方が面白いと思っていた。
「テレビより深夜ラジオとかの方が面白い」的なことを言う人が、特に男子に多くなってきていたし、片思いをしている人もラジオ派だった。
でも、猪俣のおばあちゃんは、別に中学生のテレビ・ラジオ事情をしりたかったわけではないようだ。
「おばちゃんそれは知らないけど…『釣りっ子次郎』っていうやつが面白いんだよ」
「見たことないけど、タイトルは知ってます」
それは発行部数の多い少年漫画誌で、10年にわたって連載している作品が原作のものだ。
よくあることだけれど、都会のキー局ではゴールデンタイムに放送しているようなものを、地方では何週遅れかでとんでもない時間に放送していることがある。これもそんな1本だったはずだ。
実際、新聞の番組表で確認したから、日曜日の早朝に放送していた。中学生はまだ寝ているか、勤勉な子は部活の朝練に参加しているのではないだろうか。
「釣りにすごくのめり込んでる男の子が主人公なんだけどさ、あの根性と情熱は大したもんだと思うよ。子供にはああいうのを見て、夢を持ってほしいよね」
「そうなんですね。今度見てみようかな」
私がそのタイトルを直近で目にしたのは、実は番組表の隅っこの読者投稿欄だった。
「『釣りっ子次郎』は大変よくできた番組だと思うが、主人公がまだ義務教育の年齢なのに、学校に行っているシーンが全く出てこない。これはおかしいのでは?」
こんな趣旨だったと思う。
確かに、未来のネコ型ロボットに依存しがちなメガネの子も、年の離れたおっちょこちょいな姉夫婦と同居している兄妹も、学校に行っているシーンは出てくるのだから、就学年齢の子が学校に全く行っていないというのは不自然かもしれない。
投稿主は「首都圏在住、40代主婦」だったから、お子さんと一緒に見ていて湧いた疑問を投稿しただけで、非難する意図はなかったのだろう。
小学校の図画工作の時間、風景画を描くときに、「電線とか建物とか、いろいろなものがありますが、必ずしも全部描かなくてもいいんですよ」と指導していた先生がいたから、そういうことでいいんじゃないかなと思った。
逆に、「学校生活をあえて描かない」という言い方もできるし。
というか、タイトルを知っていて、キャラクターの絵を見たことがあるだけの私は、主人公を大人――少なくとも高校生以上ではと勘違いしていた。
だって頭身が高いし、脚が長いし。顔は子供っぽいけど、そういう絵を描く人なんだろうなという程度の認識だった。
私は「そういう」ところはおばあちゃんに似たようで、大した興味のない話でも、黙ってにこにこ聞いているポーズを取るのがうまい。
猪俣のおばあちゃんは、多分その態度に安心したのだろう。普段より早口で『釣りっ子次郎』の魅力を熱心に語っていた。
***
そんな会話をした数カ月後、猪俣のおばあちゃんは急死した。
自宅の台所で倒れていたところを、偶然訪ねていったおばあちゃんが発見。病院に運ばれたが…という流れだった。
おばあちゃん、しょっちゅう行き来しているなあとは思っていたけれど、念のためにスペアキーのありかも聞いていたらしい。
おばあちゃんは猪俣のおばあちゃんの最期に立ち合い、何とか連絡のついた親戚の人に引き継いだ。
話は少し変わるけれど、そのさらに少し後、ある評論家が、アニメーションや鉄道などのある種のマニアを「おたく」という蔑称で呼び、話題になったり非難されたりした。
かといって、批判によってその言葉自体が消えたわけではない。
私は高校入学後、文芸部兼アニメ愛好会のクラスメートが、「どうせ私らって『おたく』だし」と自称というか自虐的なことを言っているのを聞いた。
猪俣のおばあちゃんは、私に『釣りっ子次郎』の話をしていたとき、間違いなく「おたく」だったんだと思う。
私もおばあちゃんも、内心はともあれ、「大人がそんなものを見るのはおかしい」とは一言も言わなかったから、のびのびと熱弁を振るってくれたのだと思う。
***
余談だけど、私の母は私が持っている漫画をたまに手に取って、「読み方が分からない」と言う。
これは何かのテレビでも実験していたけれど、漫画に慣れていない大人と、漫画慣れしている子供に、どちらかというと大人向けの難解な漫画を読ませ、目の動きを分析したら、内容の理解はともかくとして、作者の意図したとおりの順番で目で追っていたのは子供の方だったらしい。
ということは…心に響く、魂を揺さぶるような漫画作品は、頑張ってどんどんアニメーション化するべきだろう。
そうすれば、「絵がきれいで、演技のうまい人が入れ替わり立ち代わりで読んでくれる紙芝居」のような感覚で、高齢女性のハートをも簡単につかんでしまうのだ。