片方だけのカフスボタン
おばあちゃんの日記 1
少し前にも話したとおり、私のおじいちゃんは、私がまだ幼い頃に死んだ。
まだ赤ちゃんだった私を抱っこして、雛段飾りの前で笑っていた顔は、結構男前だったと思う。時代劇に出ている大御所俳優の「オオカワ」だか「オオヤマ」だかいう人に似ていた。
私におじいちゃんの記憶はほとんどない。
曲がったことが嫌いな頑固な人で、頻繁ではないにしろ、おばあちゃんに手を上げることもあったらしい。
ただ、少なくとも私は「記憶にない」ということは、トラウマになるような叱られ方をしたり、ぶたれたりということはないということだろう。
おばあちゃんに聞いても、「うどんよりそばが好きだった」「犬も猫も好きだった」「釣りが好きだった」程度の話しかしてくれない。
「釣り好きって聞いたことはあるけど、どこでやってたの?」
私たちが住んでいるのは内陸部にある地方都市の住宅街で、駅前繁華街にもそう遠くないところだ。
水のある場所といえば、ヘドロのような公園の池とか、濁った川とか。そもそも釣りをしている人など見たこともない。
「子供の頃は海辺に住んでいたんだよ。年取ってからは、時々釣り堀にいくことはあったけど」
「そっか。なるほど。釣り堀か」
そこで私は、ふと猪俣のおばあちゃんのことを思い出した。
「そういえば、猪俣のおばあちゃんに『釣りっ子次郎』の話聞いたことあったよね」
「ああ――だっけ」
「あのあと興味が出ていろいろ調べたら、漫画本だけで70冊くらい出てるから、読むの諦めちゃった」
「そう…」
「アニメーションも、再放送とかしてくれれば…」
「…もこちゃん、ごめん、おばあちゃんちょっと疲れちゃって」
それまで半身を起こして笑顔で話していたおばあちゃんが、突然表情を曇らせ、また顔の左半分を枕に押し付けるように寝てしまった。
それはちょうど、私に背を向けるポーズだった。
***
私はその後もできるだけおばあちゃんを見舞った。
家のことや学校のこと、花を買うために寄ったお店にすごい美人の店員さんがいたみたいな話を深く考えずに口にすると、「もこちゃんのおかげで、外の空気に触れられているみたい」と喜んでくれたけれど、徐々に体にも表情にも勢いがなくなっていって、しまいには、私が訪ねていっても枕から頭を上げることがなくなった。
私もあまり長居をしないようになったけれど、12月あたまのある夜、不吉な電話が鳴って、両親と私とで病院に駆け付けた。
「ご臨終です…」
本当は願掛けみたいなつもりで、11月から年賀状の準備をしていたのだ。
年賀状を出さなきゃいけないって状況をつくっておけば、神様も気を使って、少なくとも今年いっぱいはおばあちゃんを連れていかないだろうって。
でも私は、神様に気を使ってもらえるほどいい子ではなかったし、おばあちゃんの体は思ったよりずっと衰えていたみたいだ。
父は声を殺すように泣き、母は神妙な顔を保っていた。
私は――どんな顔をしていいか分からなかった。
別に顔芸大会やっているわけじゃないんだから、素直に感情を出せばいいんだけど、そもそもおばあちゃんが死んだ自体「いや、冗談やめて」って話だし。
***
一通りの儀式や手続が済んで(私は忌引で学校休んだだけだけど)、おばあちゃんの部屋で遺品整理が始まった。
部屋を空っぽにする必要はないので、そのままでもいいような気はするんだけれど、そうもいかないのだろう。
「金目のもの以外は、好きにもらっても大丈夫だと思うよ」
母はそう言って、私にも手伝わせた。
家で一番日当たりのいい8畳間で、おばあちゃんはおじいちゃんの遺品の大工道具や古い古い釣り竿、お気に入りだった服なんかを押し入れに保管して、自分の裁縫道具や本は、いつも手が届く場所に置いていた。
それでも、おばあちゃん自身が何十年も触ってなさそうなものも、押し入れの中に少しはある。
友達からの手紙類や日記は、紙だけに大分劣化していたけけど、割と日付の新しいものが読みやすかったので、興味本位でのぞいてみた。
「ある程度の年齢になったら、日記は誰かが読む前提で書くべし」とか言った有名作家がいるらしいけれど、おばあちゃんは気ままに思ったことを書きつけていたし、誤字が結構あったり、「カナリ」「デショウ」「スゴク」など、随所に片仮名があったのがご愛敬だった。
『昭和5X年〇日△日 トモコ逝く』
トモコ――「猪俣のおばあちゃん」のことだとすぐわかる。
『私は矢張りあなたのことを許せませんでした』
『大好きだったのに』
『私はアナタみたいになりたかった』