最後の会話

共有口座

 「カフェモカは好き、ココアは嫌い」の話をした朝、キミエはヒロシを見送ってから、寝直しにベッドに戻った。
 普段はキミエの方が出勤が早いが、その日はたまたま同僚と休日を交換したため、急遽休みになったのだ。

 あまり天気がよくなかったし、洗濯物もたまっていない。
 掃除も――まあいいだろう。
 布団に入るとすぐに寝落ちした。

 目が覚めたときには午後1時を過ぎていたので、(あ、銀行!)と思い出し、あわわて身支度をして、徒歩5分の店舗に行った。
 その日は何件かの引き落とし予定があったので、その確認をするためだ。

 天気予報が微妙に外れ、青く澄んだ水色の空が広がっていたから、キミエは洗濯しなかったことを少し後悔しつつ、出たついでにどこかでランチを食べようと考えていた。

 引き落とし用の口座をヒロシ名義でつくり、そこにそれぞれの給料から少しずつ入金し、残りは自分のために使う――というのは、同棲を始めたときに決めたことだ。
 いつもそれなりに十分な額を入れてあるが、万が一足りなかったときのことを考えて、引き落とし日にキミエが通帳記入をする。当日でも銀行の営業時間内ならば入金が間に合うからだ。
 この口座からお金を下ろすということはほぼなかったが、残高照会と入金ができるように、ヒロシはキャッシュカードを持っていた。

◇◇◇

 キミエはいつも、自分が勤めるスーパーの店舗内にあるATMで記帳していた。
 今回は銀行店舗でATMが二台あるが、混み合う時間帯にかち合ってしまった。いったん記帳してから列を離れて確認し、もしも入金が必要な場合は並び直すことにした。

 幸い入金は足りていたが、通帳をバッグに戻すとき「あるもの」が見えた。
 同じ銀行の別な店舗でつくった積み立て用の通帳だった。
 これもキミエが通帳、ヒロシがキャッシュカードをそれぞれ持っている。

 それぞれが給料日に「そのとき大丈夫なだけ」入金しようという取り決めだったが、2人は給料日が微妙に違うので、キミエが入金した時点では、ヒロシが幾ら入金したか分からない。
 ヒロシは金のかかる趣味もなく、酒も弱い。
 だから、キミエが「私って無駄遣いしすぎかな?」と思ってしまうほど、何なら給与の半分以上投入しているのではと思えるほど金を入れてくれるので、実はキミエは「わ、また増えてる♪」と、翌月の自分の入金のたびにウキウキしていた。

 いい機会なので、早目に記帳だけしてみようかと思い、結局列に並び直した。
 自分の番になり、通帳を挿入すると、あっさり終わると思っていた機械音が、じーっ、じーっと数度にわたって聞こえた。
 (ヒロシはいったい、何回入金してくれたの?)と、期待とも不安ともつかない気持ちで待っていると、通帳が戻ってきた。

「え…?」

 複数回、記帳する音がしたのは、入金の回数が多かったからではない。
 前日の日付で数回にわたって引き落とした記録が確認された。
 1回に出金できる限度額×n回で、結果的に積み立ての残高は半分の額になっていた。

◇◇◇

 キミエは自分の身に何が起きたのか、全くわからなかった。
 厳密には「ヒロシが(カードを使って)出金した」ことは分かるのだが、「あのヒロシがそんなことをするわけがない」という前提が、理解や想像の邪魔をした。

 誰かに脅された?
 カードを盗まれた?
 せいぜい思いつくのはこの程度だった。

 とすると、ヒロシは積み立てがどうなっているか知らないはずだ。
 さっそくチャットツールで連絡するが、仕事中だからか既読が付かない。
 直接電話をしてみると、電源が入っていないようだ。
 仕事中に迷惑かと思いつつ、事が事なので職場の方に電話をしてみると、ヒロシは3日前に辞めたことを告げられた。

「趣味の悪い冗談はやめてくださいよ!」

 電話口の相手が顔見知りだったこともあり、キミエは軽い調子で言った。

『というか同棲解消したんじゃないの?』
「はあ?!」
『彼がそう言ってた。もうこの街にいるのは辛いから、田舎に帰るって』
「田舎って…」

 店舗の出口付近の、しかし邪魔にならないところに立って電話していたが、
キミエの「はあっ?!」という語気に驚いた通行人にジロジロ見られてしまった。

 こうなると、本格的に何が何だか分からない。
 キミエは悪い夢でも見ているような気持ちになった。

◇◇◇

 通帳の残額と、自分の知らないヒロシの離職。
 トラブルに見舞われた人間は、一時的に空腹を感じなくなることがある。

 キミエは何も食べず、食べ物を調達することもなく家に戻った。
 自分の一つ一つの動作を意識していたわけではないので、「気づいたらリビングのソファに腰を下ろしていた」という感覚だった。
 そしてそのまま、ほぼ思考停止状態だった。

 部屋の電気をつけていなかった。
 外が暗くなったことに気付いて、やっとカーテンを閉め、電気をつけ、初めて時計を見た。もうすぐ午後6時である。
 平生(いつも)なら、あと1時間もすればヒロシは帰ってくるはずだ。

 キミエは自分が休みのときは、それに合わせ、もう夕飯の支度をしていてもおかしくない時間だったが、昼食を食べ損ねたことに気付き、買い置きの菓子パンをかじってみた。

 その瞬間、ヒロシの「君も遅刻しないでね」という言葉を思い出した。

 シフト変更で自分(キミエ)は明日は休みだという話を前日にしてあったし、ヒロシはそういったことは絶対に忘れないはずだ。

 悪い状況は、次々に悪い発想に結びつく。
 そういえばヒロシは、話をろくに聞かず、生返事だった(気がする)。
 いつもは「おいしいね」と言ってくれるカフェオレも無言で飲んでいた。

 「田舎に帰る」帰るというのもひっかかる言い回しだ。
 ヒロシの両親は2人とも他界しているし、特に親戚付き合いもないことは知っている。
 何より、唯一付き合いのある三つ上のヒロシの姉・カオリは、実はキミエたちの家からそう遠くないところに住んでいるのだ。

(そうか!カオリさんなら何か知っている…かな?)

 何から話したらいいか分からない状態だが、キミエはカオリに連絡を入れた。
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