連作短編集『みずいろうさぎ』

【終】再び、突然


 春、3月某日。
 俺はその日、大学の入学式で着るスーツを買いに出ていた。
 時期的に少し混み合ってはいたようだが、お直しの仕上がり日は入学式には間に合うものらしく、一安心だった。

 スーツを買った店の隣に巨大書店があり、中には全国チェーンらしいカフェがあった。
 ここは9年前の春に母に連れてきてもらって以来、来ていなかったから、カフェができていたことなど知らなかった。

 小腹が空いていたので、ブレンドとホットサンドを注文し、2人掛けの席の片方に座ると、尻の下に異物感を覚えた。

 これは…と手に取ってみると、ぬいぐるみだった。
 水色のタオル地でできている。
 耳の長さからするとウサギだろう。
 よく見ると、濃紺のネクタイらしきものと黒縁の眼鏡が刺繍されていた。
 足元にタグがついていて、(株)ゆるり工房という名前が入っているから、手づくりっぽいが量産品かな。
 そして、確実に見覚えのあるぬいぐるみだった。

「あー、それ私の、私のです!」

 俺がタグの字を確認したタイミングで、若い女の声が至近(すぐそば)で聞えた。

「え?」

 俺の席のすぐわきに、息のはずんだ高校生くらいの女の子が立っていた。
 色白ゆえに目立つ黒っぽい目元(まつげが長いんだろうな…)、赤い唇、肩までの長さの黒々とした髪。
 なぜか怒りのような表情が浮かんでいたが、まぎれもない美少女だ。
 そして俺は、瞬時にこの子が自分の「妹」であると認識した。

「あ、ああ。ごめん。知らないでこの上に腰掛けちゃって…」

 俺がそう言いながら、彼女に返そうとすると、はっと我に返ったように彼女は言い、ぺこっと頭を下げた。

「あの、その、私が忘れものしちゃっててっ!こちらこそすいません!」

 そしてなぜか、俺の対面の空いていた席に座った。
 おいおい、いくらセルフサービスとはいえ、ここはカフェだぞ。ただで居座るのは…という俺の心の声を聞いたわけでもないだろうが、「私ちょっと飲み物買ってくるんで、まだ帰らないでくださいね!」と言いながら、トートバッグを椅子に置いてレジに向かった。
 やれやれ、危なっかしい子だなと思ったら、すぐ戻ってきて、バッグの中から財布だけ取り出して再び去っていった。

 まあ、俺のサンドもコーヒーもまだ残っているし、しばらくバッグの番でもしてやろうか。
 財布だけ抜き取って、そそくさと行く姿がちょっとユーモラスでかわいかったし。

◇◇◇

 彼女は数分後、トレイにカフェモカと数種類の菓子を乗せて戻ってきた。

 そして、「改めてですけど、ありがとうございます。この中から好きなの取ってください。全部でもいいですよ」と一気に言った。

 一連の押しの強さから見て、「要らない」と言っても聞かないだろうから、扇形の分厚い焼き菓子を取った。

「じゃ、これ――バウムクーヘンかな?遠慮なくもらうよ」
「どうぞどうぞ」

 少し落ち着いたようで、表情は大分柔らかくなり、丁寧な自己紹介を始めた。
 そういえば俺は、この子が「誰」なのかは知っているのに、この子の名前も知らなかったのだ。
 知らないっていうか、覚えていないというか、あのときは聞えなかったというか。

「このぬいぐるみ、父の形見なんです」
「かた…み?」
「はい。私が中学2年のとき、病気で死んだんです」
「そうなんだ…その…」
「あ、結構経っているんで、気は使わないでください」
「そう…」
「こんなふうにお出かけのときは必ず連れて出ているから、友達とかにも呆れられてますけどね」

 彼女は自己紹介の中で、「春から高校生です」と言ったので、この子が中2ということは、去年か一昨年の話た゜ろう。
 養育費や何かの関係もあるし、母は知っていたのだろうが、俺達には何一つ知らさせていなかった。
 母は父方の祖父母とはあまり折り合いがよくなかったので、これ幸いにと接触を断っていたしな。
 俺自身も正直、寝耳に水の情報にびっくりした程度で、そこまでのショックはなかった。
 ドライな人間関係万歳!だ。

「お父さんのこと、大好きだったんだね」
「はい。優しくて朗らかで、いい父でした」
「辛かったろうね」
「そうですね。母もしばらく抜け殻みたいだったから、私は必要に迫られて、大分家事上達しちゃいました」
「はは…」

 俺はこの子を知っているが、彼女は俺が何者かは知らない。
 9年前に一度会っただけの、モブ顔男子小学生だから、覚えていないのも無理はないか。

「…実は俺も父親を失って(・・)いて、やっぱりうちの母も、しばらく落ち込んでいたんだ」

 家事に積極的に関わっていたところまで一緒だが、それを言うまでもなく彼女は妙に目を輝かせていた。

「そうなんですか?うわあ、偶然」
「そうだね…」

 彼女はしきりに「何かお礼をしたい」と言ったが、「バウムクーヘンで十分だよ」と固辞した。
 そんなことを繰り返していたせいが、思いのほか雑談が長引いてしまった。
 くすぐったいような、照れくさい感覚はあったものの、俺はそれをどこか楽しんだ。

「このウサギ、父に似ているなって思って、幼稚園の頃におねだりして買ってもらったんです」
「へえ、そうなんだ」

 確かに黒縁眼鏡の奥に細い目が見えるところは、似ていなくもないかな。
 写真も全部処分しているし、あまりしっかり覚えていないが。

「その頃父はあまり家にいなかったから、父の代わりみたいになっていました」
「忙しかったんだね」
「そうみたいです…」

 それまで元気に話していたのに、妙にしんみりした表情になった。
 当時はいざ知らず、大きくなった今となっては、父があまり家にいなかったことに不自然さを感じた可能性もあるし、ウチに来た時のことを覚えていてもおかしくはないはずだ。
(まあ、赤の他人(・・・・)に言うことでもないしな)と、彼女の様子から勝手にいろいろと読み取った。

◇◇◇

 俺は「何かの縁だし、連絡先を交換したい」と言う彼女に、「本当に縁があれば、また会うかもしれないから」と断ったが、キザだったかなと少しだけ反省した。

 父は俺たちの家庭を壊したが、もう一つの家庭の方は、一応死ぬまで(・・・・)守ったようだ。
 「妹」たちのことは、これからもあの水色のウサギが見守り続けるのだろう。

 俺は妹――というより、ちょっとした初恋の思い出のようなあの子に再会できた。
 でも、新たに何らかの人間関係を築くのは難しいだろう。
 妙に温かい感情と、軽い恨みが心の中に同時にやどった。

(父さん、尻の下に敷いてごめん――と言いたいところだけど、これぐらいで許してやるんだからありがたく思え、だな)

【『みずいろうさぎ』了】
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