連作短編集『みずいろうさぎ』
父のまなざし

父との日々

「私」が幼い頃、不在がちだった父が、ある日を境に家にきちんと帰ってくるようになった。
いつもそばで優しく見守っていて、満たされていたが…。

『みずいろうさぎ』の別視点の物語です。

『みずいろ…』の終盤で、少女が「俺」の正体に気付いていたバージョンです。
気付いていない場合のバージョンも投稿できればしたいと思います。

***

 父は私の小学校の入学式に、少しだけ顔を出した。
 多分、仕事の途中で少し抜け出してきたんだと思う。

 そもそも小学校に上がる前は、家を留守にすることが多かったので、来てくれただけでもうれしかった。
 ランドセルは大好きな水色。デパートに一緒に選びにいって、「これ!」って指さしたら、「女の子なのに?」って不思議そうに言った。
 それと、何を言ったか覚えていない――というかよく聞えなかったんだけど、何か母を怒らせるようなことを小声で言ったらしくて、「こんなときにそんなこを言わないで」って怒られてた。
 父はいつも穏やかで優しくて、ちょっと気の強い母に頭が上がらなかったから、割とよくあることだった気がする。

 今ならちょっとだけ想像できる。
「うちの息子は」「うちのボウズたちは」、多分そんなところだろう。

 どちらにしても、当時なら、聞こえていたとしても何のことだか分からなかったろう。

◇◇◇

 それは、私が小学校に上がって間もなくだった。
 父のいない日曜日――そんな日全然珍しくはなかったけれど、とにかく母が「お出かけするわよ」と突然言った。
 私はよそ行きのワンピースを着て、いつも持ち歩いている水色のウサギのぬいぐるみを抱えた。
 これは不在がちの父が「パパの代わりに」って買ってくれた一番のお気に入りだったので、私はどこにでも連れていったけれど、小学校に入ってからは、「そんな子供っぽいもの」って、母が嫌がるようになった。
 でも、その日はなぜか「ああ、それはいいね。ウサちゃんも喜ぶと思うよ」と言ったのをよく覚えている。

 連れていかれたのは、きれいなピンク色の花をつけた背の低い木が2本あって、白い壁と赤い屋根の大きなおうちだった。私たちの住むマンションよりもちろん大きくて、何となくゆったりしている。

 その家でのご用はあっという間に済んだ。
 覚えているのは、優しそうなおばさんが「クッキー召し上がれ」って笑顔ですすめてきたり、名前や年齢を尋ねたりしてきたこと。
 母が、「この子はぼっちゃんたちの妹です」って言った声が、何となくイジワルそうだったこと。

 ぼっちゃんというのは、自分より少し大きな2人の男の子のことだと思う。
 低いテーブルを間に挟んで向こう側に、優しそうなおばさんと男の子たちが長いソファに座っていた。
 小さい方の子は、落ち着きなくきょろきょろしていたけど、大きい方の子は、私と目があったときに笑いかけてきた。
 もともと細い目が糸みたいに細くなって、なぜか父の笑顔を思い出し、この男の子はちょっと好きだなと思って、帰り際に手を振ったら振り返してくれた。

◇◇◇

 その家に行った日の夜遅く、父が帰ってきた――らしい。
 私は曜日を問わず8時には寝かしつけられていたので、「パパ、お休み」と言うことはあっても、「おはよう」と言ったことはほとんどない。朝起きると、父はもう家を出ていたからだ。

 その日の翌日、私は洗面所でひげをそっている父の脚に「おはよう!」って言いながら抱きついた。

「こらこら、危ないだろう?」
「だってうれしいんだもん。パパにおはようって言えたの」
「ああ――そうだね」

 父はその日から、毎日私のそばにいた。
 もちろん仕事の出張で留守にすることはあったけれど、以前とは違う、「ちゃんとうちにいる人」って認識できるレベルになっていた。

 私が夜中にトイレに起きたら、「もう、またこんな遅くまで飲み歩いて!」って母に叱られながらコップでお水を飲んでいて、「カッコ悪いところ見られちゃったな」と恥ずかしそうに笑いながら、頭をくしゃって撫でてくれたこともある。

 時には旅行にも連れていってくれたし、学校行事にも顔を出してくれた。
 小学校の卒業式にはフルで参加してくれて、写真を撮ったり、お寿司を注文して、家で簡単な卒業パーティーを開いたりしてくれた。

 時々母を怒らせることはあったけれど、私には母の地雷は全く分からなかった。
 父は分かっていたみたいで、自分から「すまん、つい」って言っていた。

 私が中学校に入ったばかりの頃、病気が見つかって、そのせいで卒業を待たずに他界した。
 父は最後の最後まで優しかった。
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