ねずみちゃんと熊田くん

6話 センチメンタル・デイ

(回想・浩介の夢)

◯小学1年生の頃・浩介の自宅

 リビングの時計の針が午前8時をさしている。黒いピカピカのランドセルを背負った浩介が、母親のお腹まわりにしがみついて泣いている。

浩介「(嗚咽まじりに)やだ、ぼく、小学生行きたくない……」

 スーツ姿の母親は困り顔。

母親「そんなこと言ってどうするの」
浩介「お母さん、校門まで一緒にきてよぉ」
母親「無理よ、今日は送って行ってあげられないわ。お母さんもお仕事に行かなきゃならないの」
浩介「やだぁ。1人で学校まで歩くのやだぁ……」

 浩介はさらに激しく泣き始め、母親は時計を気にしてそわそわし始める。
 そのとき、ピンポーンと玄関のチャイムがなる。

母親「あら……誰かしら」

 母親は慌てて玄関へと向かう。リビングに1人取り残された浩介は、嗚咽を零しながらぐしぐしと涙を拭う。玄関の方から、母親と知らない少女の話す声が聞こえてくる。

?「小学校のお迎えにきたんです! お母さんから、お隣に小学生の男の子が引っ越してきたって聞いたから」
母親「(驚いた声で)あら、そうだったの……。もしかして先日ご挨拶に行った根津さんの?」
?「そう、根津千波です!」

 浩介は壁に隠れ、そっと玄関を覗き見る。赤いランドセルを背負った千波が、きりっとした顔で母親と話している。

母親「千波ちゃん、しっかりしてるわねぇ。何年生?」
千波「2年生です」
母親「うちの浩介と一つ違いなのね。とてもそうは思えないわ。浩介は身体は大きいけれど甘えん坊で。今日も1人じゃ学校まで歩けないって泣きどおしなの……」
千波「ふぅん……」

 千波がリビングの方を見ると、玄関を覗き見ていた浩介とバチッと目が合う。
 千波は浩介に向かって手を差し伸べ、眩しいくらいの笑顔で言う。

千波「浩介くん、一緒に学校行こ!」

 そのときの浩介には、千波の笑顔が太陽のように見える。涙の浮かんだ目にはチカチカとたくさんの光が瞬く。まるで恋に落ちたみたいに。

(回想終了)


◯夏休み・浩介の部屋

 ジージーと大音量で鳴く蝉、青々とした街路樹、7月のカレンダー、投げ出された通学カバン、今が夏休みであることを感じさせるいくつかの風景。

 目覚まし時計の針が午前8時半を指している。Tシャツに短パン姿の浩介は、ベッドの上で眠りから覚める。
 ゆっくりと周囲の様子をうかがい、今まで見ていた光景が夢であることを確認したあと、長い溜息を吐く。

浩介「あー……」

 ベッドに寝ころんだまま、両手で顔をおおう。

浩介「(切実に)ねずみちゃんに会いたい……」


〇同日・千波の家のリビング

 キッチンで母親が昼食の後片付けをしている。昼食を終えたばかりの千波は、ソファに座りボケーっと宙を眺めている。
 完全にだらけ切っている千波に、キッチンから母親の声が飛んでくる。

母親「千波、たまにはどこかへ出かけてきたら?」
千波「(気だるげに)どこかってどこさ……」
母親「どこだっていいわよ。夏休みに入ってからずっとそんな調子じゃない。たまには身体を動かさないと夏バテしちゃうわよ」
千波「んー……」
母親「(今、思いついたというように)浩介くんと連絡をとってみたら? また2人でお出かけすればいいじゃない。動物園、楽しかったんでしょう?」

千波(浩くん……)

 その名前を思い浮かべた瞬間、千波ははぁーと大きな溜息を吐く。

千波モノ『浩くんと一緒に動物園へ行ってから2週間が経った。この2週間のあいだ、私と浩くんの仲はどこかギクシャクしている』

《千波フラッシュ》浩介にキスをされた場面

千波モノ『ううん。ギクシャクしている、というよりは「私が一方的に気まずさを感じている』というのが正しいのかもしれない。気まずさを抱えるうちに高校は夏休みに入ってしまい、終業式の日を最後に浩くんには会っていない。連絡も取っていない』

千波(気まずくなるなって方が無理だよ……だってキスされたんだもん。今まではずっと頬だったのにいきなり唇。何で? 何でいきなりキスしたの? わけわかんないよ浩くん……)

 悩む千波のポケットでスマホが鳴る。画面を見てみると浩介からメッセージが届いたところ。メッセージの内容は――『ねずみちゃんが足りない~(泣き顔)』

千波「……んん?」

 そのとき、ピンポーンとドアベルが鳴る。
 千波が玄関を開けてみると、そこには泣き顔の浩介が立っている。へにょりと眉を下げ、涙と鼻水まで垂らしちゃった情けない顔の浩介は千波を見て一言。

浩介「ねずみちゃんが足りなくて死んじゃう~(泣)」
千波「(悩んでいたことが阿保らしくなった顔で)は、はぁ……?」


〇引き続き千波の家・リビング

 千波と顔を合わせて元気を取り戻した浩介が、ツヤツヤとした顔でソファに座っている。その横には「何でこんなことになった?」と混乱状態の千波。
 せっせと飲み物を準備する千波の母親に、浩介ははきはきと挨拶をする。

浩介「(さっきとは別人のような表情で)突然おじゃましてすみませんでした」
母親「(笑いながら)全然、構わないわよ。さっき丁度千波に話してたの。浩介くんと一緒にお出かけでもすればいいのにって」
浩介「え、そうなんですか?」

 浩介、わくわくした顔で千波の方を見る。

浩介「ねずみちゃん、一緒にどこか行く?」
千波「(少し気まずそうに)どこかってどこさ……」
浩介「んー……どこかなぁ?」

 母親がローテーブルに飲み物とお菓子を並べながら提案する。

母親「どこも行くところがないのなら小学校に行ってきたら? 鈴原先生、帰ってきてるらしいわよ」
千波「(少し考えて)鈴原先生って……小2の頃の担任の?」
母親「そう、鈴原孝則先生。教頭先生になって、この春からしらさぎ小学校に戻ってきてるんですって」
千波「へぇ」

 千波はチラッと浩介の顔を見る。浩介は散歩を待つ犬のようにキラキラした瞳で、千波のことを見つめている。
 お出かけ決定。


〇同日の昼下がり・しらさぎ小学校の職員室

 夏休みの小学校。児童はおらず、数人の教職員が職員室に滞在している。休み中ということもありまったりした雰囲気。
 40代半ば頃の男性教師・鈴原先生が、突然やってきた千波を見て驚きの声をあげる。

鈴原先生「おおー根津か。久しぶりだなぁ」
千波「(笑顔で)お久ぶりです、先生」
鈴原先生「今、いくつになったんだ?」
千波「17歳です、しらさぎ高校の2年生になりました」
鈴原先生「(感慨深く)あの小さかった根津がもう高校生か……それで、今日はどうしたんだ?」
千波「先生に会いにきたんですよ。春からしらさぎ小学校に戻ってきてるって聞いたから」
鈴原先生「お、嬉しいねぇ」

 千波と浩介は職員室の応接スペースへと案内される。千波と浩介は横並びで座り、応接テーブルを挟んだ向かい側に鈴原先生が座る。鈴原先生は2人にペットボトルのジュースを差し出す。

鈴原先生「良かったら飲みな」
千波・浩介「ありがとうございます」

 自分もペットボトルのお茶を一口飲んだ後、鈴原先生は浩介を見る。

鈴原先生「君は……もしかして熊田浩介くんか?」

 名前を呼ばれて浩介はびっくりする。(鈴原先生は千波の担任だったので、浩介とは面識がない)

浩介「僕のこと、ご存じなんですか?」
鈴原先生「(うんうんと頷きながら)知ってるとも。毎日、根津と一緒に登下校してただろう? 君たち2人は先生たちの間では有名人だったんだ。小さな根津が、大きな熊田の手を引っ張って歩いている姿が可愛くてなぁ」

 浩介と千波は顔を見合わせる。

千波(そんなに目立ってたんだ。何か、恥ずかしいな)

 ペットボトルを応接テーブルの上に置いて、鈴原先生は楽しげに声を潜める。

鈴原先生「(期待するように)根津と熊田は今も仲がいいのか?」

 この質問に浩介が答えようとする。余計なことを言われては大変だと、千波は浩介の言葉を遮る。

千波「浩くん、この春からしらさぎ高校の1年生になったんですよ! 同じ文芸部だから何かと話す機会も多くって。それで今日、せっかくなら一緒に来ないかなって私が浩くんを誘ったんです」

 千波がはきはきと説明する横で、浩介はちょっぴり不満そう。何だ付き合っているわけじゃないのか、と鈴原先生もちょっぴり不満そう。それでもすぐに笑顔になる。

鈴原先生「今日は一緒に来てくれて良かったよ。先生、根津と熊田が手をつないで歩いているのを見るのが好きだったんだ。凸凹なのに妙にしっくりきてさ」

 浩介と千波を眺め、目を細めて笑う。

鈴原先生「――今も相当、凸凹だな」
千波「(不満げに)私、これでも大きくなったんですよぅ」
浩介「(楽しそうに)えへへ。すくすく伸びちゃいました」

 職員室の一角に、あははと和やかな笑い声が響く。


〇小学校からの帰り道・人気の少ない公園の散策路

 青々としげる木々、道端に咲く野花。曲がりくねったアスファルトの道にはいくつもの日溜まりができている。そののどかな道を、浩介と千波は手を繋いで歩いている。
 動物園に行ったときの気合いの入った格好とは対照的に、2人ともラフな格好。浩介はTシャツに短パン、千波はオーバーサイズのTシャツにショートパンツ、髪も結んでいない。どのような姿でも2人は一緒にいられるのだと感じさせるような光景。

千波「まさか鈴原先生が、浩くんのことも覚えてるとは思わなかったね」
浩介「そうだね、びっくりしちゃった」
千波「(照れくさそうに)私たち、そんなに目立ってたんだね。全然そんなつもりなかったんだけどな」
浩介「そうだね……」

 浩介はそれきり黙り込む。千波は不思議に思って浩介の横顔を見上げる。木々の陰が落ちた浩介の顔は、懐かしい記憶を思い起こすよう。

浩介「(ゆっくりと探るように)ねずみちゃんはさ……僕と初めて会ったときのこと、覚えてる?」
千波「初めて……って、どこで会ったっけ? 学校?」

 浩介は優しい微笑みを浮かべて千波を見下ろす。

浩介「僕のうちの玄関だよ。ねずみちゃんが僕のことを迎えに来てくれたんだ。『一緒に学校行こ』って言って」
千波「そうだっけ……」

 必死に記憶をたどる千波の手を、浩介はぎゅっと強く握る。千波がはっと顔をあげると、浩介は過去を懐かしむような、あるいは今を愛おしむような表情を浮かべている。

浩介「すごく不安だったんだ。引っ越したばかりの町で、家族以外に知り合いもいなかった。友達だって1人もいなかった。母親が一度、通学路を一緒に歩いてはくれたけれどさ。『今日から1人で学校に行ってね』なんて、知らない町に1人で放り出されるような気持ちだった。そこに――ねずみちゃんが来てくれたんだ」

《浩介フラッシュ》「浩介くん、一緒に学校行こ!」太陽のように輝く千波の顔。

浩介「(満面の笑顔で)あのときから、ねずみちゃんは僕の太陽なんだ」

千波(太陽……か)

 千波はつないだ手を見下ろす。浩介の大きな手に、小学生の頃の小さな手がだぶって見える。千波はふっと表情を緩める。

千波(私たちの関係に、無理やり名前をつける必要はないんだね。浩くんの『好き』がどんな意味だっていい。私たちの関係はそれでいいんだ)

 吹っ切れた顔で浩介の手を握り返す。日溜まりを歩く2人の後ろ姿。
 
※千波は第3話で「私たちの関係ってなんだろう?」「浩くんの好きはどんな『好き』なの?」と葛藤していた。その葛藤に対して、このとき自分なりの答えを見つけた。
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