私は蕾になる
外の世界へ
 「コノハ……」
「あ、あぁ……」
 一度決壊したダムの洪水は、止まることを許さないらしい。
 リビングの床に水たまりを作っていく私を、お母さんは優しく抱き締める。
「コノハ」
「あああ、いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
 お母さんの温もりに声色に、私はもう我慢が出来なかった。
 私だって、私だって本当はずっと外に出たかった。でも怖くて怖くて、どうしたら良いのかわからなかった。
 だから、いつしか、どうでも良いと思うようになっていた。どうせ自分は外に出ることは出来ないからと、全てのことから目を背けていた。
 だってそうしないと、自分の弱さを認めてしまうから。周りを恨んでしまいそうだから。そうなってしまう自分が怖くて仕方なかった。
「……何でなの」
 嗚咽と共に、今まで抑えていた言葉が漏れ出ていく。言ってしまったらもう後には引けなくなるという恐怖は、もうここにはなかった。
 
※※※

 その後私は、涙と共に自分が引きこもる発端となった出来事をお母さんに話した。話したと言ってもそのほとんどは愚痴のようなもので、きちんと日本語としてお母さんに伝わっているかを気にし始めたのは、ようやく涙が枯れた頃だった。
「……気がつかなくて、ごめんね」
 どうにか落ち着いた私の前に煎れたての紅茶を差し出しながら、お母さんは申し訳なさそうに言う。
「ううん。お母さんは何も悪くないよ。だって何も言わずに学校に行かなくなったのは私だもの」
 ていうか、隣座りなよ?と、私がソファの空間を指差すと、お母さんは遠慮がちにしつつも心底嬉しいといった表情で隣に座ってくれた。
「……コノハは、間違ってないわ」
「え?」
 多分このままお互い何も話さずに時が過ぎていくと思っていたから、お母さんの突然の切り出しには少し驚いた。私は紅茶をテーブルに置くと、お母さんの顔をじっと見つめる。お母さんは今何を考えているのだろう。物憂げに先を見つめるその横顔からは、何も読み取れなかった。
 お母さんは私の視線に気づくと、私が幼い頃から見せてくれていたその笑顔で、続けた。
「コノハは、小さい頃から真っ直ぐだったものねぇ。男の子に喧嘩挑んだり、運動会の徒競走なんかでは絶対一位になるって夕方まで走り込みしてたり」
「ち、ちょっと急に何よ恥ずかしい……」
「でもコノハのそういうところが私はずっと誇らしかった。男の子に喧嘩挑んだのもクラスの子がちょっかいかけられているのを見過ごせなかったからだし、徒競走だって……、私とお父さんを喜ばせようと練習していたんでしょう?」
「!? 嘘でしょ、黙ってたのに何で知ってんの……」
「知ってるわ。だってコノハは私達の娘だもの」
 赤面する私に、お母さんはクスクスと笑う。まさか徒競走のことを知られていたなんて、夢にも思わなかった。だって久しぶりにお父さんが出張から帰ってきて、家族で過ごせる時だったんだから。ちょっとは良いところ見せたいじゃない。
 当時のことを思い出し、羞恥心から紅茶をゴクゴクと飲み干した私を見つめながら、お母さんは続ける。
「……コノハの行動はいつも、誰かのことを思ってのことだったわ。今話してくれたことだって……、コノハはただ、悪口を止めようとしただけなんだものね」
 ただ、悪口を止めようとしただけ……。
 そうだ。そうだった。私はただ、千鶴の悪口を言うのを、あの子達にやめて欲しかったんだ。
 あの時は自分の言い方のせいでこんなことになってしまったんだと、何度も自分に言い聞かせて納得した気でいたけど、本当はいつも腑に落ちていなかった。
 何で自分は間違ったことをしていないのに、こんな目に遭わないといけないの?
 本当は、ずっとそう思っていたから。
「お母さん、ありがとう。やっと自分の気持ちがわかった気がするよ」
「そう……」
 今度はお母さんが涙ぐんでいる。
「もう。泣かないでお母さん」
 そう言ってお母さんにティシュの箱を差し出しながら、私は考える。
 ーーあの人は、どんな風に外に出ていったのかな。
 思い浮かぶのは、先程テレビで見たあのアイドルの姿。
 艷やかな黒髪を踊らせて、綺麗で上品な桃色のドレスを着て、軽やかに『アイドル』をしていた彼女は、とてもこの間まで活動休止していた人とは思えない。
 何があの人を外に連れ出したのか、気になって仕方ない。これも私の悪い癖だ。気になることが出来たら、とことん突き詰めたくなるところが、私にはある。でも今はそんな自分も、ちょっとは好きになれそうな気がする。
 ーー知りたいな。あの人のこと。
 私も、外に出たらあの人の気持ちを知ることが出来るだろうか。あの人に近づけるだろうか。
 ーー明日、ちょっとコンビニでチキンライスの素でも買ってこようかな? 
 そう思う私の心は、数ヶ月前と同じように、目の前の希望に想いを馳せていた。
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