いばらの塔のエリオット
凶兆
あの部屋から出ていく時のエリオットの眼差しが、頭に焼きついて離れない。
頬を染め、すがるように言われた「早く戻って来い」という甘い声がいつまでも心をざわつかせる。
——いけない、いけない。今は仕事中!
朝食を出す際に回収して来たリネンの洗濯、それが終わればまた昼食の準備と、朝のんびりしてしまった分仕事が詰まっている。
——でも嬉しかったな。
会社では替えのきく歯車の一部。彼氏にとっては淡白でつまらない女。
家に帰れば母親がわり。どんなに尽くしても、有り難がられることはなく、そこにいて当たり前の存在に成り果てていた。
ただ毎日摩耗していく自分を、虚しく思うことが多かった。
もちろん、日本にいた頃だって不幸せだったわけじゃない。
だけど有り余る熱を自分に向けられ、求められ、貪られるように愛されたのは初めてで。
そんなふうに必要とされることが嬉しくて。
——流されちゃったっていうのは否めない。でも、嬉しいのは確かで……。ああ、もう、やめやめ。今は考えるのをやめよう!
第一、彼は処刑されるかもしれない王子なのだ。
思いを通わせたところでいいことはない。
メリは洗濯場で桶を借りて水を張り、真っ白なシーツをつけ込んだ。石鹸で泡立てたあとは、素足で踏んで汚れを落とす。
「ひー、毎度ながら冷たい。体が冷える……」
「大変そうですね」
突然男性に話しかけられ、驚いて顔を上げる。目の前に金髪、長身の騎士が立っていた。顎の下に特徴的なあざがあるのを見つけ、この人物が誰だか気がつく。
「近衛騎士の……」
「おや、よく気がつきましたね。一度しかお会いしていないのに」
年は30くらいだろうか。童顔で、可愛らしい雰囲気の人だ。にこりと微笑めば、両頬にえくぼができる。
「顎のあざが、印象に残ってまして」
「ああ、これ。よく言われるんです。変わった形だねって」
やはり王がエリオットの様子を見にきた時、後から入ってきた方の近衛騎士だ。顔は見えなかったが、あざと髪色で覚えていた。
「先日は大丈夫でしたか? ジンが失礼をして申し訳ありません。もしお怪我などされていたら、薬をお持ちしますので」
ジン、というのはおそらく、メリを突き飛ばした方の騎士だろう。これまで出会った兵士も騎士も、皆奴隷であるメリに対し横柄な態度をとってきたので、気にもとめていなかったが。この人は申し訳なく感じてくれているようだ。
「ああ、申し遅れました。私は近衛騎士団の団長をしております、レオと申します。以後お見知り置きを」
丁寧な挨拶をされ、慌てて桶から出て頭を下げる。
「深見メリです。こちらこそ、ご挨拶が遅れまして……」
そう言いかけたところで突風が吹いた。強い横風だ。ロープに干された洗濯物たちが、吹き飛ばされそうな勢いで風に煽られている。
轟音が鳴り響く。強風で目が開けられず、状況が掴めない。腕で顔を覆い、立っているのがやっとだった。
「体勢を低くして!」
レオに体を包まれるようにして地面にしゃがむ。力強い腕に抱き寄せられたまま、頭上を見上げ、思わず悲鳴をあげそうになった。
「龍……!」
青白い鱗を光らせながら、巨大な龍の一団が空を覆っていた。彼らが羽をはためかせるたび、風がうなり、地面が震える。凄まじい圧迫感が空を支配し、周囲にいる使用人たちも顔を青くしていた。
「こんなにたくさんの龍が、この国では頻繁に現れるんですか?」
戸惑いながらそう問えば、レオは空を見上げたまま首を振る。
「いえ、こんなことは初めてです。白龍になった第二王子の呼びかけに応じ、戦時に力を貸してくれること以外で、龍がこのように人の住処に現れることはありませんでした」
「……王子の、今の状況と関係あるのでしょうか」
「おや、あなたは知らされているんですね。いや、隠すのは無理か。夜な夜なあの悲鳴が聞こえてきては」
耳をつんざくような咆哮。空気がビリビリと震えるのが感じる。メリは思わず両手で耳を覆った。
大地を睨みつけるようにしながら、城の上をしばし旋回した龍の大群は、空の向こうへと去っていった。その姿が消えたのと同時、使用人のメイドが悲鳴をあげる。
「この国はもう終わりだわ! きっとあれは凶兆なのよ!」
彼女の声に反応する形で動揺が広がった。メリに被さるようにしていたレオが立ち上がる。
「混乱を収拾して参ります。道中お気をつけてお帰りくださいね」
颯爽と去っていくレオの後ろ姿をぼうっと見送り、ハッと我にかえる。
「あ、洗濯物! 急がなきゃ!」
龍が現れるのが天変地異の前触れだとしても、今メリにできることは王子の世話だけ。彼が白龍になれねば、きっと事態は収集するはず。
——それなら、いいものしっかり食べて、あったかくして眠っていただかなきゃ。今の空の様子も、きっと見ているわよね。それならまた塞ぎ込んでいるかも。早めに昼食を持っていこう。
頬を染め、すがるように言われた「早く戻って来い」という甘い声がいつまでも心をざわつかせる。
——いけない、いけない。今は仕事中!
朝食を出す際に回収して来たリネンの洗濯、それが終わればまた昼食の準備と、朝のんびりしてしまった分仕事が詰まっている。
——でも嬉しかったな。
会社では替えのきく歯車の一部。彼氏にとっては淡白でつまらない女。
家に帰れば母親がわり。どんなに尽くしても、有り難がられることはなく、そこにいて当たり前の存在に成り果てていた。
ただ毎日摩耗していく自分を、虚しく思うことが多かった。
もちろん、日本にいた頃だって不幸せだったわけじゃない。
だけど有り余る熱を自分に向けられ、求められ、貪られるように愛されたのは初めてで。
そんなふうに必要とされることが嬉しくて。
——流されちゃったっていうのは否めない。でも、嬉しいのは確かで……。ああ、もう、やめやめ。今は考えるのをやめよう!
第一、彼は処刑されるかもしれない王子なのだ。
思いを通わせたところでいいことはない。
メリは洗濯場で桶を借りて水を張り、真っ白なシーツをつけ込んだ。石鹸で泡立てたあとは、素足で踏んで汚れを落とす。
「ひー、毎度ながら冷たい。体が冷える……」
「大変そうですね」
突然男性に話しかけられ、驚いて顔を上げる。目の前に金髪、長身の騎士が立っていた。顎の下に特徴的なあざがあるのを見つけ、この人物が誰だか気がつく。
「近衛騎士の……」
「おや、よく気がつきましたね。一度しかお会いしていないのに」
年は30くらいだろうか。童顔で、可愛らしい雰囲気の人だ。にこりと微笑めば、両頬にえくぼができる。
「顎のあざが、印象に残ってまして」
「ああ、これ。よく言われるんです。変わった形だねって」
やはり王がエリオットの様子を見にきた時、後から入ってきた方の近衛騎士だ。顔は見えなかったが、あざと髪色で覚えていた。
「先日は大丈夫でしたか? ジンが失礼をして申し訳ありません。もしお怪我などされていたら、薬をお持ちしますので」
ジン、というのはおそらく、メリを突き飛ばした方の騎士だろう。これまで出会った兵士も騎士も、皆奴隷であるメリに対し横柄な態度をとってきたので、気にもとめていなかったが。この人は申し訳なく感じてくれているようだ。
「ああ、申し遅れました。私は近衛騎士団の団長をしております、レオと申します。以後お見知り置きを」
丁寧な挨拶をされ、慌てて桶から出て頭を下げる。
「深見メリです。こちらこそ、ご挨拶が遅れまして……」
そう言いかけたところで突風が吹いた。強い横風だ。ロープに干された洗濯物たちが、吹き飛ばされそうな勢いで風に煽られている。
轟音が鳴り響く。強風で目が開けられず、状況が掴めない。腕で顔を覆い、立っているのがやっとだった。
「体勢を低くして!」
レオに体を包まれるようにして地面にしゃがむ。力強い腕に抱き寄せられたまま、頭上を見上げ、思わず悲鳴をあげそうになった。
「龍……!」
青白い鱗を光らせながら、巨大な龍の一団が空を覆っていた。彼らが羽をはためかせるたび、風がうなり、地面が震える。凄まじい圧迫感が空を支配し、周囲にいる使用人たちも顔を青くしていた。
「こんなにたくさんの龍が、この国では頻繁に現れるんですか?」
戸惑いながらそう問えば、レオは空を見上げたまま首を振る。
「いえ、こんなことは初めてです。白龍になった第二王子の呼びかけに応じ、戦時に力を貸してくれること以外で、龍がこのように人の住処に現れることはありませんでした」
「……王子の、今の状況と関係あるのでしょうか」
「おや、あなたは知らされているんですね。いや、隠すのは無理か。夜な夜なあの悲鳴が聞こえてきては」
耳をつんざくような咆哮。空気がビリビリと震えるのが感じる。メリは思わず両手で耳を覆った。
大地を睨みつけるようにしながら、城の上をしばし旋回した龍の大群は、空の向こうへと去っていった。その姿が消えたのと同時、使用人のメイドが悲鳴をあげる。
「この国はもう終わりだわ! きっとあれは凶兆なのよ!」
彼女の声に反応する形で動揺が広がった。メリに被さるようにしていたレオが立ち上がる。
「混乱を収拾して参ります。道中お気をつけてお帰りくださいね」
颯爽と去っていくレオの後ろ姿をぼうっと見送り、ハッと我にかえる。
「あ、洗濯物! 急がなきゃ!」
龍が現れるのが天変地異の前触れだとしても、今メリにできることは王子の世話だけ。彼が白龍になれねば、きっと事態は収集するはず。
——それなら、いいものしっかり食べて、あったかくして眠っていただかなきゃ。今の空の様子も、きっと見ているわよね。それならまた塞ぎ込んでいるかも。早めに昼食を持っていこう。