いばらの塔のエリオット
気難しい王子
「寒い……寒すぎる!」
凍えた両手を擦り合わせながら、薄暗い林を抜けて、メリは食堂に食事をとりにいく。水浴び場の水がなんと冷水だったのだ。日本のシャワーブースの気分で服を脱いで入ってしまったらえらい目にあった。
湯が出るような設備は備わっていなかったのだ。水浴び場で湯を使いたければ、塔にある暖炉で湯を沸かさねばならないということを理解した。仕事後に浸かる湯がメリの唯一と言っていい癒しだったのに、ここでは湯船もない。
「ええい、不幸探しをしていても仕方がないわ。今後は昼間、時間を見つけて浴びよう……」
温暖な気候であることが不幸中の幸いだ。この国に四季はあるのだろうか。もし冬が来るのであれば、冬の間の使用人はどうやって体を清めているのか。
マルクに教えられた厨房で王子の食事を受け取ると、「あんたも大変だね」とエプロンをしたまとめ髪の中年女性に声をかけられた。そんなに王子の世話は大変なのだろうか。不安になって「前の人はどうしたんですか」と聞くと、気まずそうに苦笑いをされ、そそくさと立ち去られてしまった。
その後も、塔に戻る道中で何度も他の使用人たちに話しかけられた。どうやら「異世界から来た人物」が第二王子の世話係になったことは、それなりに噂になっているらしい。誰も彼も興味深げにメリに質問をしてくるものの、第二王子に関して尋ねると、どの使用人も口を閉ざして離れていってしまう。
––––エリオット王子に関する情報が、ここまで閉ざされているのはなんでなんだろう。
トレーに乗せた食事を運びながら、不思議に思う。仮にも王子であるのに、牢獄のような場所に幽閉されていて、誰もが彼に関する情報を話したがらない。
––––会ってみればわかるかな。
まもなく夕食の時間を迎える。メリは塔の頂上に向かう石段を、踏み外さないようにゆっくりと登った。
第一の扉が現れる。この扉を開けた先にあるフックに、まず、鍵をかける。部屋に入った際に、王子に鍵を奪われぬよう、ここにかけておくらしい。
そしてあと一回り階段を上がった先に、第二の扉が現れる。この扉を開ければ王子がいる。第二の扉には悪魔のような恐ろしい生き物の彫刻が施されていた。マルク曰くこれは「封印の紋」で、この扉に名前を刻まれると、戸に触れることさえできなくなってしまう古い魔法がかけられているらしい。扉に刻まれているのはもちろん「エリオット王子」の名前だ。
––––魔法がある世界ってすごいな。でもこの世界の魔法って、どういうものだろう。誰でも使えるってわけじゃないのかな。
第二の扉につけられたリング型の金具を、扉に打ち付けてノックする。扉が分厚いので、これを使わないと中まで響かないらしい。しかし返事は聞こえない。
何度ノックしても返答がないので、業を煮やしてそうっと薄く扉を開けてみる。
——寂しい部屋だな。
王子の部屋というから、王様に謁見した場所のように、豪華な絨毯や美しいシャンデリアが設られているものだと思っていた。しかし床に広がっていたのは日に焼けた安物らしきエンジ色の絨毯。そして壁一面の本棚に、ところどころほつれてしまったカバーがかけられたソファ、使い古された白木のテーブルと椅子。この塔は頂上が膨らんだような形になっているため、一階の使用人部屋より広さはあるが、薄暗い、あまりに粗末な部屋だった。
——ええと、王子は……。
視線を漂わせた先、キングサイズのシンプルなベッドの上に人影を見つけた。黒地の部屋着を着た男性の姿だ。20歳と聞いていたので、線の細い若者を想像していたのだが。彼の肩幅は広く、ベッドに腰掛けている後ろ姿だけでも、メリよりもずっと背が高いことがわかる。
「覗き見とは、いい趣味だな」
腹に響くようは低い声がそう言った。気づかれていたらしい。メリは扉を全開にすると、恭しく頭を下げ、極力申し訳なさそうに聞こえるように言葉を紡ぐ。
「大変失礼いたしました。お返事がなかったもので。入ってよろしいでしょうか」
そう答えた瞬間、弾かれたように王子がこちらを向いた。
「うわ……」
思わず、声を上げてしまった。
この世のものとは思えないほど美しい男を目にしたからだ。
新雪のように真っ白な髪、透き通るような滑らかな肌、見るものすべてを魅了するようなキリリとした涼やかな目元に、通った鼻筋。冬の妖精がいるとしたら、きっとこんな感じなのだろうとメリは思った。
しかし不思議なのは、彼も驚いた顔をしてこちらを見ていること。
言葉はない。ただ、目を見開いてこちらを観察している。
——これは、入っていいってことかな?
メリは、食事のトレーを持ったまま、部屋の中に一歩を踏み出した。
「失礼致します」
軽くお辞儀をして顔を上げると、目があった。白に映える濃紺の瞳だ。まるで深海のような瞳だとメリは思った。
一方、メリをその瞳に映した王子は––––どうしてか、陶器のように白い肌を、勢いよく桜色に染めた。
「女……? なぜ、女が、ここに」
動揺した声色で、彼は独り言のように呟く。
「え、いや。え? 前の使用人も女性だったんじゃ」
「出ていけ! 二度と来るな! 部屋に入ることを禁ずる!」
突然枕を投げつけられ、メリは咄嗟に傍に飛び退いた。
顔を染めたまま、怒りに震えた様子でメリを睨みつける王子の顔を見て、慌ててテーブルに食事をおき、階段に向かって駆け出す。
「なんで、どうして。女だってだけであんなに怒られなきゃいけないの?」
自分の部屋に駆け込んだあとで、メリは小さく叫んだ。
わけがわからない。てっきり日本にいた時に読んでいた物語のイメージで、この王子の世話も女性のメイドがやっているのだと思いこんでいた。しかしあの反応を見るに、女性の使用人が来たのはこれが初めてらしい。
部屋に入ることを禁じられて、命令された仕事の全てをこなすことなどできない。食事はともかく、まさかリネンを王子に剥いでもらうことなんてできないし、掃除だって、湯浴みの手伝いだってある。
薄っぺらい毛布に体を包み、この晩メリは、眠れぬ夜を過ごした。
*
「食事よし。はあ、だけど。今日はリネンの洗濯の日なのに。部屋に入れてもらえるのかなぁ。……これなら、ひたすら書類と向き合って残業してる方がマシだったな。逃げ出せば殺されるし、仕事をこなせなくても殺されるのに。初めから断固部屋に入るのさえ拒否って……」
翌朝、朝食の時間。メリは再びドアの前に立っていた。昨日と同様ドアの金具を鳴らしてみるが、応答がない。こっそりドアを開けると、睨みつけるようにこちらを見る濃紺の瞳とぶつかった。
「し、失礼します」
「入ってくるなと言っただろう! 食事は手だけ入れて中においてってくれ」
「いや、あの……リネンの交換が。お願いですから、仕事をさせてください。私、仕事ができないと、殺されてしまうので……」
王子は顔を顰める。
メリは懇願するように王子を見つめてみた。
気まずい沈黙が部屋の中を支配する。
––––しまった、高貴な方に、自分の身の上を嘆くなんて失礼だっただろうか。
自己嫌悪で項垂れていると、王子の深いため息が聞こえた。
「5分だ」
「え」
「5分で仕事を終えろ」
「わ、わかりました! ありがとうございます!」
良かった。これで仕事をさせてもらえる。
メリはほっと胸を撫で下ろし、部屋の中に入った。テーブルに食事を置くと、窓際にあるベットに向かいリネンを剥ぐ。なるべく時間をかけないように、テキパキとこなしていたのだが。
––––し、視線が刺さる!
背後から、ビシビシと王子の視線を感じるのだ。
そんなに女の使用人が珍しいのだろうか。舐めるように頭の先から足の先まで、じっと観察されている気がする。
それとも仕事ぶりをチェックしているのだろうか。正確に5分以内に完了できるか、監視しながら時間を測っていたりして。
自分の一挙手一投足を試されているようで、頭から足の指先まで緊張が走る。
「お食事を終えられた頃に、掃除に伺います」
「そうか」
部屋を出てようやく、深く呼吸できた気がした。
絡みつくような視線から解放され、こわばっていた背中を伸ばす。
「そうか」と言われたということは、また入ってもいい、ということだ。たぶん。
とりあえず、これで与えられた仕事をさせてもらえる。メリはひとつハードルをこえられたことに、安堵の息をついたのだった。
凍えた両手を擦り合わせながら、薄暗い林を抜けて、メリは食堂に食事をとりにいく。水浴び場の水がなんと冷水だったのだ。日本のシャワーブースの気分で服を脱いで入ってしまったらえらい目にあった。
湯が出るような設備は備わっていなかったのだ。水浴び場で湯を使いたければ、塔にある暖炉で湯を沸かさねばならないということを理解した。仕事後に浸かる湯がメリの唯一と言っていい癒しだったのに、ここでは湯船もない。
「ええい、不幸探しをしていても仕方がないわ。今後は昼間、時間を見つけて浴びよう……」
温暖な気候であることが不幸中の幸いだ。この国に四季はあるのだろうか。もし冬が来るのであれば、冬の間の使用人はどうやって体を清めているのか。
マルクに教えられた厨房で王子の食事を受け取ると、「あんたも大変だね」とエプロンをしたまとめ髪の中年女性に声をかけられた。そんなに王子の世話は大変なのだろうか。不安になって「前の人はどうしたんですか」と聞くと、気まずそうに苦笑いをされ、そそくさと立ち去られてしまった。
その後も、塔に戻る道中で何度も他の使用人たちに話しかけられた。どうやら「異世界から来た人物」が第二王子の世話係になったことは、それなりに噂になっているらしい。誰も彼も興味深げにメリに質問をしてくるものの、第二王子に関して尋ねると、どの使用人も口を閉ざして離れていってしまう。
––––エリオット王子に関する情報が、ここまで閉ざされているのはなんでなんだろう。
トレーに乗せた食事を運びながら、不思議に思う。仮にも王子であるのに、牢獄のような場所に幽閉されていて、誰もが彼に関する情報を話したがらない。
––––会ってみればわかるかな。
まもなく夕食の時間を迎える。メリは塔の頂上に向かう石段を、踏み外さないようにゆっくりと登った。
第一の扉が現れる。この扉を開けた先にあるフックに、まず、鍵をかける。部屋に入った際に、王子に鍵を奪われぬよう、ここにかけておくらしい。
そしてあと一回り階段を上がった先に、第二の扉が現れる。この扉を開ければ王子がいる。第二の扉には悪魔のような恐ろしい生き物の彫刻が施されていた。マルク曰くこれは「封印の紋」で、この扉に名前を刻まれると、戸に触れることさえできなくなってしまう古い魔法がかけられているらしい。扉に刻まれているのはもちろん「エリオット王子」の名前だ。
––––魔法がある世界ってすごいな。でもこの世界の魔法って、どういうものだろう。誰でも使えるってわけじゃないのかな。
第二の扉につけられたリング型の金具を、扉に打ち付けてノックする。扉が分厚いので、これを使わないと中まで響かないらしい。しかし返事は聞こえない。
何度ノックしても返答がないので、業を煮やしてそうっと薄く扉を開けてみる。
——寂しい部屋だな。
王子の部屋というから、王様に謁見した場所のように、豪華な絨毯や美しいシャンデリアが設られているものだと思っていた。しかし床に広がっていたのは日に焼けた安物らしきエンジ色の絨毯。そして壁一面の本棚に、ところどころほつれてしまったカバーがかけられたソファ、使い古された白木のテーブルと椅子。この塔は頂上が膨らんだような形になっているため、一階の使用人部屋より広さはあるが、薄暗い、あまりに粗末な部屋だった。
——ええと、王子は……。
視線を漂わせた先、キングサイズのシンプルなベッドの上に人影を見つけた。黒地の部屋着を着た男性の姿だ。20歳と聞いていたので、線の細い若者を想像していたのだが。彼の肩幅は広く、ベッドに腰掛けている後ろ姿だけでも、メリよりもずっと背が高いことがわかる。
「覗き見とは、いい趣味だな」
腹に響くようは低い声がそう言った。気づかれていたらしい。メリは扉を全開にすると、恭しく頭を下げ、極力申し訳なさそうに聞こえるように言葉を紡ぐ。
「大変失礼いたしました。お返事がなかったもので。入ってよろしいでしょうか」
そう答えた瞬間、弾かれたように王子がこちらを向いた。
「うわ……」
思わず、声を上げてしまった。
この世のものとは思えないほど美しい男を目にしたからだ。
新雪のように真っ白な髪、透き通るような滑らかな肌、見るものすべてを魅了するようなキリリとした涼やかな目元に、通った鼻筋。冬の妖精がいるとしたら、きっとこんな感じなのだろうとメリは思った。
しかし不思議なのは、彼も驚いた顔をしてこちらを見ていること。
言葉はない。ただ、目を見開いてこちらを観察している。
——これは、入っていいってことかな?
メリは、食事のトレーを持ったまま、部屋の中に一歩を踏み出した。
「失礼致します」
軽くお辞儀をして顔を上げると、目があった。白に映える濃紺の瞳だ。まるで深海のような瞳だとメリは思った。
一方、メリをその瞳に映した王子は––––どうしてか、陶器のように白い肌を、勢いよく桜色に染めた。
「女……? なぜ、女が、ここに」
動揺した声色で、彼は独り言のように呟く。
「え、いや。え? 前の使用人も女性だったんじゃ」
「出ていけ! 二度と来るな! 部屋に入ることを禁ずる!」
突然枕を投げつけられ、メリは咄嗟に傍に飛び退いた。
顔を染めたまま、怒りに震えた様子でメリを睨みつける王子の顔を見て、慌ててテーブルに食事をおき、階段に向かって駆け出す。
「なんで、どうして。女だってだけであんなに怒られなきゃいけないの?」
自分の部屋に駆け込んだあとで、メリは小さく叫んだ。
わけがわからない。てっきり日本にいた時に読んでいた物語のイメージで、この王子の世話も女性のメイドがやっているのだと思いこんでいた。しかしあの反応を見るに、女性の使用人が来たのはこれが初めてらしい。
部屋に入ることを禁じられて、命令された仕事の全てをこなすことなどできない。食事はともかく、まさかリネンを王子に剥いでもらうことなんてできないし、掃除だって、湯浴みの手伝いだってある。
薄っぺらい毛布に体を包み、この晩メリは、眠れぬ夜を過ごした。
*
「食事よし。はあ、だけど。今日はリネンの洗濯の日なのに。部屋に入れてもらえるのかなぁ。……これなら、ひたすら書類と向き合って残業してる方がマシだったな。逃げ出せば殺されるし、仕事をこなせなくても殺されるのに。初めから断固部屋に入るのさえ拒否って……」
翌朝、朝食の時間。メリは再びドアの前に立っていた。昨日と同様ドアの金具を鳴らしてみるが、応答がない。こっそりドアを開けると、睨みつけるようにこちらを見る濃紺の瞳とぶつかった。
「し、失礼します」
「入ってくるなと言っただろう! 食事は手だけ入れて中においてってくれ」
「いや、あの……リネンの交換が。お願いですから、仕事をさせてください。私、仕事ができないと、殺されてしまうので……」
王子は顔を顰める。
メリは懇願するように王子を見つめてみた。
気まずい沈黙が部屋の中を支配する。
––––しまった、高貴な方に、自分の身の上を嘆くなんて失礼だっただろうか。
自己嫌悪で項垂れていると、王子の深いため息が聞こえた。
「5分だ」
「え」
「5分で仕事を終えろ」
「わ、わかりました! ありがとうございます!」
良かった。これで仕事をさせてもらえる。
メリはほっと胸を撫で下ろし、部屋の中に入った。テーブルに食事を置くと、窓際にあるベットに向かいリネンを剥ぐ。なるべく時間をかけないように、テキパキとこなしていたのだが。
––––し、視線が刺さる!
背後から、ビシビシと王子の視線を感じるのだ。
そんなに女の使用人が珍しいのだろうか。舐めるように頭の先から足の先まで、じっと観察されている気がする。
それとも仕事ぶりをチェックしているのだろうか。正確に5分以内に完了できるか、監視しながら時間を測っていたりして。
自分の一挙手一投足を試されているようで、頭から足の指先まで緊張が走る。
「お食事を終えられた頃に、掃除に伺います」
「そうか」
部屋を出てようやく、深く呼吸できた気がした。
絡みつくような視線から解放され、こわばっていた背中を伸ばす。
「そうか」と言われたということは、また入ってもいい、ということだ。たぶん。
とりあえず、これで与えられた仕事をさせてもらえる。メリはひとつハードルをこえられたことに、安堵の息をついたのだった。