いばらの塔のエリオット

甘美な誘い

 まずいものを見てしまった。いや、ずっとお世話をしていれば、いつか目に入ることもあったかもしれないのだけれど。

 ––––結構、大きい。いや、何を考えているの、私!

 見られてしまったことに気づいた王子は、恥辱に打ちひしがれたような顔をして、「あとは自分でやる!」とメリからヘチマのスポンジを奪い取る。

 引き下がるのもよろしくないかと、メリは彼の背中側に待機し、体を洗い終えるのを待った。

 ––––もしかして、もしかしてだけど。あの人、童貞なんじゃあ。

 そうだ、そうに違いない。16歳から閉じ込められて、その時から今と生活が変わらなかったのだとしたら。女性と関係を持つなんてできなかったはずだ。
 しかも幽閉されてからの使用人は、男のみ。使用人に手をだす、なんてこともなかったはず。

 ––––それであの態度だったのかあ。納得。

 女性に興味はあるのだろう。王子は20歳だと聞いている。自分の大学生の頃を思い返しても、男性はそういうことへの興味が爆発しているような頃だ。それが自分の意思とは関係なく、こんなところで禁欲生活を送っているのだから、突如現れた使用人の女に動揺しても仕方がない。むしろ健康的だ。

 ––––でも今後気まずいなあ。どうやって接するべきかな……。これで妙に距離をとったら、傷つくよねえ。デリケートなお年頃だし。

 戸惑う一方で、こんなにも若く美しい男性が自分に欲情していたということが、メリの口元を緩ませる。頬を染め、舐めるように自分を見ていた彼の視線を思い出し、ぞくりとした。

 しかも彼には今、メリしかいない。
 他の誰かが彼に手を差し伸べることはない。
 鳥籠の中で、世話役の自分と、定期検診で訪れるマルクとしか顔を合わすこともない。
 彼の目の前に姿を現せる女性は、メリだけ。

 ふいに優越感が心に広がった。
 不遇の人生を歩んだ上、こんな世界に飛ばされて、絶望的な中で掴んだ、歪んだ希望だった。

 いたずら心が胸の内で頭をもたげる。
 あの純朴で美しい男を、弄んでみるのも悪くないかもしれない、と。

 ——はっ。なんてことを考えているの。……はぁ、私も欲求不満なのかしら。

 ぶんぶんと頭を振り、気を紛らわしてみたが。
 一度巻き起こった不埒な考えは、メリの頭の片隅にこびりついて離れなかった。


 *

翌日早朝。扉を打ち破ろうとするかの如く、大きなノックの音でメリは起こされた。

「何事……?」

「さっさと扉を開けろ!」

 声の主は男性だった。苛立っている様子で、扉を開けろと叫んだ後も、老朽化した粗末な扉が揺れるほどにたたき続けている。

「いったい誰よこんな朝早くに……」

 寝巻き姿だったメリは取り急ぎエプロンだけを身につけ、扉を開ける。
 朝靄の中、扉の前に立っていたのは見覚えのある兵士だった。

 ——あ、私をここに引きずってきたやつ。

「なんだその格好は。急ぎ準備せよ。陛下が間も無くこちらに到着される」

「え? こんな早くになんの用事ですか?」

「口答えするな! 私は扉の前で待機している。陛下が到着されたら速やかに上階へご案内できるよう支度をしろ。かんぬきは外しておけ」

「わ、わかりました」

 兵士によって乱暴に扉が閉められた直後、メリは水浴び場のカーテンの裏で急いで着替え、髪を梳かし、顔を洗った。

「シグワルド陛下のお越しである!」

 ふたたび扉が開け放たれる。ギリギリ身支度が間に合い、ほっと胸を撫で下ろす。許可があるまで顔を上げてはいけないと、ここに連れてこられた際に学んだので、メリは平身低頭し、王の言葉があるまで待機する。

 入ってきたのは三人、足元だけが見える。玉のように磨かれた革靴を履いているのがきっと王様。そして足甲を守る防具であるソルレットを装備した二人は近衛騎士だろうか。

「奴隷、案内せよ」

 初日の嫌な記憶が蘇る。王の声だ。

「はい」

 ——相変わらず偉そうでやなやつね。王様ってみんなこうなのかしら。

 メリは鍵の束を手に、下を向いたまま階段を登り始める。後ろからついてくる靴音が離れすぎないように登りながら第一の扉を開け、第二の扉の金具を叩く。

「エリオット王子殿下、おはようございます。扉を開けさせていただいても良いでしょうか」

「どけ!」

 近衛騎士に背中を突かれ、メリは扉を押し開けるようにして部屋の中へと転がった。

「いったあい……」

「何事だ」

 エリオット王子が、メリのすぐそばまで駆け寄ってきてくれていた。王様は傍若無人だが、この人には人の心がある。手を差し伸べようとしてくれたが、恥じらいがちに引っ込めた。やはり女性に触れるのは抵抗があるらしい。

「おお、起きておったか、エリオット」

 振り返れば、王が部屋の中まで入ってきていた。うっかり目を合わせれば、嫌悪に顔を歪められ睨みつけられる。

「奴隷、まだこの国の礼儀がわからぬか」

「申し訳ありません」

「やめろ。俺に話があるのだろう」

「ああ、そうだったな」

 あとからもう一人の近衛騎士が部屋の中に入ってきた。王の手前顔を上げられないので、どんな人物かは見えないが。

「変化はうまくいったか」

 王の問いを嘲笑うようにエリオット王子は答えた。

「うまくいっていたらとっくに報告がいっているだろう」

「……この、出来損ないが!」

 王がエリオット王子の胸ぐらを掴み、殴りかかろうとしたところで、騎士が止めに入る。咄嗟に視線を上げた瞬間、金色の少し長めの短髪が視界に入る。鼻筋の通った、若い男。顎の下に不思議な形のアザがあるのが一瞬見えた。

「陛下、王子の体に傷をつけるのは良策ではないかと」

 舌打ちをした王は、乱暴に彼の腕を跳ね除けた。
 メリは慌てて視線を下げる。

「わかっている! エリオット、可能性のあることを全て調べ上げ試せ! 欲しい資料があれば、そこの奴隷を通じて要望するがいい」

 そう叫んだ王は、騎士二人を連れ、出口に向かって歩いていく。

「父上」

 王の背に、王子が声をかける。

「何だ!」

「龍は見ておられる。政ごとのときも、寝所にいるときも、汚れた金を受け取っている時でさえも。態度を改められるのが、よろしいかと」

「……首を洗って待っていろ。21歳の誕生日。出来損ないのお前が、何事も成し遂げられぬとき。古い刃こぼれした斧で、その首叩き切ってやろう」

 呪詛の言葉を吐くように、憎らしげにそう言った王は、扉の奥へと消えていった。苛立って階段をふむ音が徐々に遠のいていく。静寂が戻ってきたところで、メリはほう、と息をつきゆっくりと立ち上がる。

「体は大丈夫か」

 心配そうに王子がメリの様子を伺う。

「はい、なんとか」

安心させるように微笑めば、びっくりしたような顔をされ、そっぽをむかれた。

「ところであの……」

「何だ」

 顔を横に向けたまま、王子が答える。耳が真っ赤に染まっている。

 ——無理もないか。昨日あんなことがあったばかりだものね。

 苦笑いをしつつ、メリは言葉を続ける。

「先ほどから、龍とか変化とか、初めて聞く言葉が多くて。あの、あれはいったい何のことなのでしょう?」

 まだエリオット王子の世話係になって数日。マルクも忙しいのかここのところ姿を見せず、使用人たちはエリオットのことを話すのを避けている。
 そこで王の口から出てきた不思議な単語たち。おまけに王子の処刑を仄めかすような言葉まで飛び出し、メリは混乱していた。

「お前に……話すことは何もない」

 絞り出すような声で、王子は言う。
 とてもそれ以上質問できるような雰囲気ではない。メリは空気を読み、一歩下がって頭を下げた。

「出過ぎた質問をいたしました。……これで、失礼致しますね」

 王子は何も言わず、その場で佇んでいる。メリは彼から逃げるように、部屋をあとにした。



 ——ああ、気が重い。

 また湯浴みの時間がやってきてしまった。
 今朝の王の訪問により、頭の中には疑問が渦巻いている。おまけにエリオットが欲情している「印」を見てしまってからは、これが初めての湯浴み。

 メリと王子の間には、なんとなく気まずい空気がある。メリも遠慮して、朝昼の食事の際は話しかけなかったし、掃除の間も黙々と作業をしていた。

 しかし湯浴みに関しては、まったく言葉を交わさずというのは難しい。
 それに王子は前回同様バケツを運ぶ作業を手伝ってくれている。メリは王子にお礼を言いつつ、平常運転に戻す会話の糸口を探りつつ。着々と湯浴みの準備を進めた。

「王子、お召し物を……」

「自分で、やる」

 言葉は少なかったが、高圧的な言い方ではなかった。なんだか反抗期の男の子の相手をしているみたいだな、と思えば笑みが漏れた。

 すると王子は目を剥き、ふん、と鼻を鳴らしつつも、また頬を染める。

 桃色に染まった頬を眺めながら、メリは心の奥がギュッとなるのを感じた。

 少年から大人に変わったばかりの男性が、父親からあんな仕打ちを受け、こんなところに閉じ込められている。「変化」が何かはわからないが、期待する成果を出せないだけで、殺されそうになっているという状況はわかった。

 ––––かわいそうに。

 丸められた服を受け取る。カゴに服を置き、スポンジで体を洗おうとしたところで手を止めた。断られるかもしれないと思ったからだ。

「洗わせていただいても良いですか」

「……頼む」

 ––––え、いいんだ。

 意外に思いつつも、背中にスポンジを滑らせる。広い背中は、やはりなかなか洗いでがあった。洗っているうち、恥ずかしそうにする王子の横顔を見て、頭の端に追いやったはずの不埒な想いが蘇ってくる。

 ——いやいや、これは仕事!

 手を止め、頭をブンブンと振っていると、振り向いた王子がこちらを見ていた。

「続けてくれ」

 ああ、もう。

 メリはわざとゆるゆると洗うスピードを落とした。擦るのではなく、撫でるように、背中を丁寧に洗っていく。首元には指を這わせ、指の腹で丁寧に洗う。

 するとだんだんと、王子の息が荒くなってきた。横顔を盗み見れば、目をぎゅっと瞑り、唇を噛んで快感に耐えているようだった。

 ––––うっわあ、これは、なかなか。

 サドかマゾかでいえば、自分はマゾ寄りだと思っていた。
 だけど今、明確に、自分の中の嗜虐心に火がついていると感じる。

 でも、止めなければならない。このかわいそうな人に、そんな醜い欲望を向けてはいけない。

 しかしもしも、彼もそうした戯れを求めているとしたら?
 じっとりとメリを観察する目、上気する頬、何かを期待する眼差し——。

「王子……あの……」

 気がつけば口を開いていた。

「なんだ……」

 やめておけばいいのに。

「あの、すごく、お辛そうですが……」

 王子の心を確かめたくて、思わず言葉を紡いでいた。

「気にするな……問題ない」

 王子の濃紺の瞳には、涙が滲んでいた。
 その羞恥心に侵された表情の、あまりの美しさに息を呑む。

「王子のその……『お熱』を楽にする方法があるのですが」

 びくり、と王子の体が跳ねる。知識としては知っているのだろう。わなわなと唇を振るわせ、眉間に皺を溜めている。

 ––––まずい、やっぱり踏み込みすぎだったかな。

 慌てて視線を伏せる。しかし王子から発された一言は、想定外のものだった。

「その方法とは、どんなものだ」

「え」

「試してみよ……俺も、お前が来るようになってから、この熱をおさめることに苦慮している。方法があるなら……試してみたい」

 メリは顔を上げた。
 王子は恥じらい、視線を湯の表面で漂わせながらも、期待を込めた眼差しをしている。

 ––––ああ、もう限界。

「かしこまりました」

 メリはスポンジを洗い桶の中に沈め、そっと、王子の体に素手で触れた。
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