くじらの子守唄

○時間経過。放課後。久白のクラス。別れの挨拶をしている学生たち。

十和子「やば、私今日バイトなんだよね。先行くわ。また明日~」
久白「またね~」
久白(十和ちゃんは忙しいなぁ…私もバイト探そっかな。でも飲食店とか接客無理だし…それに)

 考えながら廊下を歩いていたら携帯が震える。着信と相手に気付いて大慌てで周囲を確認し、近くの誰もいない空き教室に滑り込んだ。
 扉を閉めてしゃがみ込み、着信中の携帯をとりだしてテレビ通話にでる。

いるか『く~ちゃぁ~!』

 ぱっと画面一杯に写り込む、二歳の幼女。
小波(さざなみ)いるか。二歳。ふくふくほっぺたの短いツインテール)

久白「いっちゃぁ~んっ」
久白(バイトするならいるかちゃんと会う回数減っちゃうし!)

――この子は年の離れた姉の子供で、姪っ子のいるかちゃん。最近二歳になって語彙の増えた、我が家のアイドルだ。

 きゃっきゃと歓声を上げるいるかと、デロデロに顔が溶けている久白。

佐智『急にごめんね久白。まだ学校だよね?』
(久白の姉、佐智(さち)。プログラマー。髪を後ろで一つに束ね、口元に黒子のある色っぽいお姉さん)

久白「学校だけど、もう授業終わったからこれから帰るよ」
佐智『だと思ったけどいるかが久白とお話するってきかなくて…』
いるか『くーちゃー!! くーちゃぁー!! おうたぁー!』

 必死に呼びかけるいるか。テレビ通話の画面一杯に小さな手の平。

佐智『もう、この子ってば本当に久白が好きね~』
久白(我が人生に一片の悔いなし…!)

 可愛い姪っ子に慕われている事実についつい感涙してしまう久白。

佐智『この子ってばいつも元気で、嬉しいことだけど大興奮でお昼寝できてないの。それでいつもの頼みたくって』
久白「全然いいよ~。私もいっちゃんに会えて嬉しいし」

 へらりと笑う久白。姪っ子の可愛さにやられている。

久白(まだ学校だけど、人も居ないし小声なら大丈夫だよね)
久白「いっちゃん~。おねむの時間だよ~」

 くじらのぬいぐるみの尾鰭部分を握りしめるいるかに、小さな声で歌う子守唄。

【ブラームスの子守唄:19世紀ドイツの作曲家ヨハネス・ブラームスによる作品。5つの歌曲の第4番目の歌曲。出産祝いに贈られた曲とされている】

――中学の頃、音楽の授業で習った子守唄。
――(これドイツ語で歌えたらかっこ良くね…!?)なんて思いつきで音だけ覚えた子守唄は、いるかが姉のお腹にいたときからずっと歌い聞かせていた。

 歌を聴いたいるかが、ぬいぐるみのくじらを握ったままごめん寝状態になる。子守唄を歌いきると、完全に寝入っている健やかないるかが画面越しに見えた。

久白(かわいい~)

 子守唄で寝ちゃういるかが可愛い。

佐智『助かった~今日もありがとね久白!』小声
久白「いいよいいよぜんぜんいいよ~」小声でにっこにこ。
佐智『お腹にいるときから聞いていた所為かしらね。いるかってば久白の子守唄だと絶対寝るの。助かるけど親としてはジェラシー』
久白「ははは…」
佐智『じゃ、本当にありがとね。気を付けて帰りなさいよ。今日、お父さんたち遅いんでしょ? 戸締まりもしっかりね』
久白「(そういえば二人とも飲みが重なったとか言ってたな…)うん、わかった。じゃあね」
佐智『ばいばい~』

 テレビ通話を切って一息つく久白。

久白(ほんと、胎教の成果かな。お腹の中にいても私の歌を聞いていてくれたのかも)

――母なる海の中で漂いながら、私の歌を聴きながら眠っていたのだろうか。

久白(再生数四桁に満たない底辺歌い手な私だけど、こうやって歌が必要とされるのは嬉しいな)

――たくさんの人にきいて欲しいって欲求はあるけど。
――可愛い姪っ子が私の子守唄で眠るのは、本当に可愛くて嬉しい。

久白(これはもう、疑いようもなく別格…いっちゃん尊い…)
久白(神として崇め奉る推しは【プランクトン】さんだけど、ひたすら癒やしを提供してくれる推しはいっちゃんだわ)

 推しは、一人ではないのです。
 チャイムが鳴り響き、そういえばまだ学校だったと顔を上げる。

久白(早く帰って【プランクトン】さんの新曲聞き倒そ)

 なんて思いながら立ち上がれば、物音。ガタッと、座っていた人が立ち上がる音。

曲野「…ねえ」
久白(え)
曲野「今、歌ってたのアンタ?」

 振り返ると、窓際の席から立ち上がる男子生徒が一人。長い前髪とちょっとずれたマスク。顔がよく見えない、長身の同級生。曲野海月が席から立ち上がっていた。
 久白はちょっと怖じ気づいた。

久白(え、誰…じゃない)
久白(あれ、もしかして…今の、聞かれてた?)

――身内の小さい子専用の、デレデレな子守唄、聞かれてた?

 ぶわわっと赤くなる久白。赤くなる久白をきょとんと見返す曲野。

久白(恥っずぅ…!!)

 いざ聞かせるために歌う声と寝かし付けに出す声は全く別物! 久白はぷるぷる首を振った。

久白「いやいや知らない知らない人違いです失礼しましたっ」
曲野「いや、アンタだ」

 逃げようと踵を返す久白の襟首をがしっと掴む曲野。身長差も体格差も筋力差もあって逃げられない久白。

曲野「そもそも他に人が居ないし…声が同じだ。アンタで間違いない」
久白(ひ、ひえ…!)

 逃がさないと掴まれた襟首。恐る恐る振り返り、やっと相手が誰だか思い出す。

久白(この人誰だっけ。えっと、選択授業で見たことがあった気がする…あ、思い出した)
久白「ま、曲野君…だっけ? と、隣のクラスの…」

 久白に確認されて、そういえばという顔をする曲野。前髪などで顔は見えない。

曲野「…ああ、そっか。隣の…隣のクラス…確か、調辺さん。調辺さんだ」
久白(知らなかったんかい! アッもしかして自分から情報出しちゃったかな!?)
久白(イヤでも隣のクラスだから逃げても近日中に身バレすることに…っそのとき「放課後学校で歌ってたよね(子守唄を)」とか言われるよりは今口止めした方がいい…!?)
曲野「…で、なんで逃げたの。調辺さん」
久白(イヤ無理怖ーい!)

 顔が見えなくて長身、上から圧迫感があり襟首をしっかり掴まれている逃げられない恐怖。

久白(でもって逃げるわ――! うっかり歌を聴かれたとか恥ずかしすぎて逃げるわ!! むしろなんで捕まえたの曲野君!)

 でも言えない…っだって曲野君と話したことがない。人間性がわからなくて震える久白。

久白(ど、どうしよう。「同級生が子守唄歌ってた」とかSNSで呟かれて特定されたらどうしよう。イヤ何も悪いことしてないけど「あの子学校で一人歌ってたらしいよ~」とか同級生に指差されたら怖い!)
久白(ネットに歌声晒して平気なのは身元不明だからであって、特定されたらお家から出られない――!)
曲野「逃げないで」

 ぷるぷる震える久白を気にせず、しかし逃がさないように引っ張って壁際に押しつける。両手で逃げられないように囲われて、混乱していた久白はふと気付く。

久白(え、なにこれ…まさか、壁ドン…!?)

 あっさり向かい合う形で壁ドン状態になって、目を剥いて驚く久白。思わず見上げた先で、長い前髪から覗く曲野の目と目が合った。

曲野「ねえ…さっきの」
久白「うへっ」

 やけに近い距離で囁くように言われる。このとき曲野のマスクがずれて、少しだけ曲野の素顔が見えた。
 目付きは悪くてクマが目立つけど、とても整った綺麗な顔。
 眠そうな、だけど熱心な目で久白を見下ろしていた。そんな視線に思わず頬を染める久白。

曲野「もう一回、俺に歌って」
久白(な、なんで――!?)

――これは、広いネットの海で。
――ひっそり歌っていたくじらの物語。

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