くじらの子守唄
2話

○放課後の空き教室で壁ドンされている久白としている曲野。遠くで野球部のかけ声、帰校する生徒の挨拶などが聞こえる。

――もう一回、俺に歌って。

久白(う、歌って…子守唄のこと…? 何で…というか)
久白(曲野君思った以上に顔がいい…!)

 マスクの下から現われた顔が思ったより端正で、目が離せなかった久白だが…ハッと現在の距離に気付いてぐるっと横を向く。

久白(何はともあれ、ち、近い――!)
久白(やめて近付かないで! 陰キャは異性と距離が近いと心臓に異常をきたすから!)

 心臓がドンドコ鳴り響く久白。

久白「ま、曲野君! 離れ…離れて!」
曲野「え、無理」
久白「なんで!?」
曲野「だって調辺さん逃げるじゃん」
久白(確かにさっき逃げようとしたけれども――!)

 うっかり歌声を聞かれて逃走仕掛けたが、あっという間に捕まった。襟首をしっかり掴まれて、一瞬で捕まった。

曲野「さっきも聞いたけど、なんで逃げたの?」
久白(逃げるよ…! 知らない人に歌を聴かれていたとか、恥ずかしくて逃げるよ…!)

 羞恥心で震える久白。冷や汗が止まらない。

曲野「ねえ」

 グッと腰を屈めて久白に近付く曲野。視線を逸らす久白の耳元で囁く。

曲野「なんでこっち見ないの」
久白(距離が近――い!!)

 蒼白になって冷や汗を流す久白。歌を聴かれて恥ずかしくて逃げたけどこの距離感も恥ずかしい。

久白(曲野君ってこういうキャラだったの!? クラス違うし話したこともないけどもっと大人しいと思ってた!)

――曲野海月君は、隣のクラスの生徒。いくつかの選択授業が被っていただけの同級生。
――ボサボサの髪とマスクで顔はよくわからないし、いつも眠そうにしているから、勝手に自分と同じ陰キャ枠だと思っていたのに…。
――それなのに、こんなにグイグイ来る人だったの!?

 距離感に赤くなりながら勢いに青ざめ冷や汗を流す久白。赤くなったり青くなったり忙しい。

曲野「さっきの【ブルームスの子守唄】だよね」
久白「う、うん」
曲野「日本語版じゃないから歌詞わからなかったけど、すごく心がこもっていて眠くなった」
久白「ぅあ、あ、ありがとう…?」
久白(眠くなるって…子守唄だから褒められているんだよね…?)

 あまり褒められている気がしない…と思いながらもお礼を言う久白。距離が近くて正面から視線を合わせられないが、チラチラと横目で確認しながら会話を続けた。

久白(中々お昼寝しない姪っ子の寝かし付けソングだから、寝かしつけには定評があるけど…)

※子守唄があれば寝付き三秒のいるかちゃん。へそ天。可愛い。

曲野「俺にも歌って」
久白「は?」
曲野「さっきの子守唄」
久白「…へ?」
曲野「歌って」

 歌って…? きょとんと見上げ、やっと何を言われているのか理解した久白。子守唄を歌って欲しいと同級生に言われて仰天。さっきのも、本気で言われていたのだ。

久白(ほぼ初対面の同級生に子守唄って…どんな罰ゲーム!?)
久白「い…いやです!」

 振り払って逃走しようとするも、あっさり首根っこを掴まれ捕獲。

曲野「逃がさねぇよ」
久白「ひょっ」

 さっきまでちょっと気怠そうな、のんびりした口調だったのに、急に声が低くなって恫喝みたいな台詞になった。
 長い前髪から覗く目が鋭すぎて怯える。

久白(な、なんでぇ~~!!)

○時間経過。
二階建ての豪華な一軒家。広いリビングにて。

 あのまま引きずるようにつれていかれた久白。曲野家に連行。
 一人用のソファに座ってガチガチに固まる久白。目の前には緑茶と醤油せんべい。

久白(為す術もなく家まで引きずられてしまった…)

 来客用の低いテーブル。挟んだ向こう側に三人掛けのソファがあり、そこに曲野が座っている。曲野の前にはお茶もせんべいもない。

曲野「そんな固くならなくても大丈夫だよ。親、海外だから今日は帰らないし」
久白(それの何が大丈夫なの!?)

 何一つ安心材料じゃない…!

久白(怖すぎてここまで来たけど、連れて来られたのがまさかの曲野君の自宅…! いきなり自宅ってなに!? しかも親は帰らないって…!? ど、どうしよう…逃げるタイミングがわからない…!)
曲野「で、繰り返しになるけど…」
久白「ひぇ…」
曲野「子守唄歌って」
久白「なんでそんなに歌って欲しいの…!?」

 自宅に連れ込んでまで…!?
 マスクを外しているが、前髪で顔は見えない。しかし真顔の気配。キリッとした空気で要求してくる。

曲野「…」

 当然の疑問だが、言葉を探すように黙る曲野。無理を通しているのはわかっていたので、観念するように前髪をかき乱し、キリッと背筋を伸ばしていた体勢を崩す。

曲野「実は俺、最近全然眠れなくてさ」

 三人掛けのソファに姿勢悪く足を投げ出しながら座る曲野。行儀が悪いと言うより、顔色が悪く具合が悪そう。

曲野「色々癒やし効果のあるアロマとか、体操とか、それこそ睡眠促進曲とか聞きまくったけど全然効果なくて。寝不足で頭は痛いし気持ち悪いし集中できないし…」
久白(曲野君…顔はよく見えないけど、確かにだるそう…?)
曲野「歴史の授業は眠くなるのに寝れねぇし」
久白(一番辛いやつだ…)
曲野「帰る気力もなくて、少しでも寝たくてあそこにいたんだけどやっぱ眠れなくて」
久白(眠れなかった…つまり最初から起きてたんだ…ってことはまさか)

 ハッとなる久白。

曲野「そしたらアンタが来て、猫なで声出したかと思えば、子守唄歌い出して」
久白(最初から聞かれていた――――!!)

※姪っ子対応の猫なで声『いっちゃ~ん! おねむの時間だよ~っ』が同級生に聞かれていた。
 羞恥からいやああああっと赤面するが気にせず話し続ける曲野。

曲野「その子守唄を聞いたら、眠気が来た」
久白「えっ」
曲野「チャイムが鳴らなければ眠れた…思う」

 ずるずると、ソファに頽れていく曲野。その表情はしかめられ、顔色も悪い。

曲野「色々試したけど駄目だった。でもアンタの歌は効いたんだ。だから…俺に子守唄、歌って…」
久白(なにそれ…睡眠グッズが全然効かないのに私の歌だと眠れるっておかしくない?)
久白(確かにいーちゃんも私の子守唄で寝てくれるけど、それはお腹にいるときから聞いていたからで…私の歌に、そんな睡眠セラピーみたいな効果なんてない…)
久白(…って、曲野君どんどん衰弱していってる――――!?)

 本当に限界が近いらしく、久白が考え込んでいる間にもどんどん力尽きていっている曲野。それに気付いてソファから立ち上がり慌てる久白。

久白「私よりお医者様の方が適任じゃない!?」
曲野「医者やだ…」
久白「そこで我が儘言っちゃう!?」

 こんなに辛そうなのに!
 しかし顔色も悪く辛そうなのに、子供のようにヤダヤダと首を振る曲野。

曲野「医者やだ…医者よりも、アンタの子守唄で眠れそうだったから、歌って…」
久白(な…なんだろう、さっきまで意味わからなくて怖かったのに、急に雨に濡れた捨て犬を見たみたいな保護欲が…相手が弱ってるからそう見えるの!?)

 犬耳付きで弱った鳴き声を上げているように見える久白。捨て犬かな?
 眼鏡の度が合わないんだろうか。

久白(曲野くんに必要なのは診察だ。絶対子守唄じゃなくて、お医者様に診て貰った方が確実だよ…でもなんか頑なだし、こんなヘロヘロな私が曲野君を背負って医者に連れていくのも無理だし…)
久白(救急車は大げさだって怒られそう…タクシー呼んだら乗ってくれる? 子供みたいに駄々こねる? 子供、みたいに…)

 オロオロしながら曲野の様子を見て、じっとこちらを見上げる彼を目が合う。
 鋭くて怖いと思っていたのに、うるうると潤んでいる気がした。きゅんっと胸が締め付けられた。

久白「い、一回試すだけだよ…?」

 気怠そうだがぱっと喜びの空気を出す曲野。それを感じ取りながら、自分の胸を押させて言い聞かせる。

久白(し、しかたない…一回歌えばなんか違うって諦めてくれるよね! 一回…一回だけなら…)
久白(本当はやだけど! 同級生の男の子に子守唄を歌うとか、何の罰ゲームかなって思うけど…仕方ないじゃん!)
久白「効かなかったら、病院行くんだよ…!」
久白(曲野君が病院を嫌がるいっちゃんそっくりなんだもん…!)

※やだー注射ヤダーっと泣き喚くいるかちゃん二歳を思い出す久白。駄々をこねるやだやだと、曲野の医者やだやだが重なる。何なら目をうるうるさせて見つめてくる表情も重なる。

久白(…そう! そうよ、ここにいるのはいっちゃん…同級生じゃなくて姪っ子…!)

 だと思って乗り切ることにした。
 曲野が寝そべるソファの横に膝を突いて、子守唄を歌い出す久白。このとき無意識に、姪っ子にするようにお腹ポンポンした。
【ブラームスの子守唄】を歌う久白。歌を聴いて、うとうとし出す曲野。

曲野(…やっぱり…この子守唄…)
曲野(意味は分からないのに…)
曲野(安心する)

 一曲歌って、反応がないのでゆっくり曲野を確認する久白。
 健やかに、曲野は眠っていた。
 スヤァ。

久白「…え、曲野君…?」

 いろんな角度から寝顔を確認する久白。間違いなく深い寝息を立てる曲野。

久白「ね、寝てる…だと…?」

 スヤァ。

久白「…うそやん」
久白(ほ、本当に寝た――――!)

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