意地悪な先生と過ごす夏休み
1
「ない、ない!どこにもないっ」
相沢陽菜(あいざわひな)は焦っていた。夏休み前、最後の登校日。めずらしく早起きをして学校へ行く準備をしている時に起きた重大問題。
「せっかく終わったのに、どこ!?」
部屋中ひっくり返して探すも、一向に見つからない数学のレポート。数学の先生に頼み込んで延ばしてもらった期限は今日の朝までで、この提出に間に合わなければ夏休みは補修になってしまう。
陽菜は一度、深呼吸をして目を閉じた。
「レポートを書き終わったのは昨日の放課後・・・・・・」
同じく正規の期限に間に合わなかった親友の茜(あかね)と、教室で居残りをして取り組んでいた。なんとか形になり一息ついたところで時計を見ると、アルバイトの開始時間ギリギリだということに気づく。慌てて筆箱や教科書を鞄に突っ込み、ひとり先に教室を飛び出した。
「バイト先かも!」
確証はないが可能性に賭けるしかない。毎日夏休みに入るまでを指折り数えて待ち望んでいたのだ。
(ここで諦めてたまるものか!私の夏休み!)
より一層の狂気をはらみ、朝食を用意してくれていた母が驚き、声をあげるよりも早く玄関に飛び込む。古くて立て付けの悪いそのドアをガンッと蹴り開けた。
「ごめん、いってきます!」
時を同じくして、駅の改札を出る男性がひとり。
例え耳をふさいでも視界から入り込んでくる騒音と、隙間のないほど行き交う人々の熱気に眉を寄せた。そして雲をも通り越してじりじりと照りつける太陽と、体感温度を三度は上昇させる虫の泣き声に苛立ちを覚える。
こんな清々しい朝の通勤ラッシュにのみこまれぬよう人の波に乗り、不機嫌を募らせながら勤務先へ向かう彼、長谷川巧(はせがわたくみ)は私立高校の教師をしている。着任三年目でクラスも受け持ち、教師としてそれなりに充実した日々。
明日には夏休みだ。夏期講習や部活動はあるものの、学生濃度は確実に薄れこの地獄は少しマシになるだろう。しかしそれでも、今日という一日が始まることに、自然と落胆のため息をついた。
目的地まであと少しのところで、赤色に変わった信号機に足止めされ軽く舌打ちをする。点字ブロックの手前に立ち、手持ちぶさたに腕時計を見た。
「十五分か」
八時十五分を指した文字盤が光を反射してきらりと光る。今日の日程だとか職員会議の内容だとかを悶々と考えていると、後方が少しざわめいた。
次の瞬間、最前線に躍り出たのは、一日中嫌でも目にする制服を着た女子高生。巧は目的地が同じであることを理解して、彼女の非常識さを横目で睨む。しかし、本人はただひたすら信号機と横切る無数の車を交互に追い、きょろきょろと首を振る。今にも飛び出しそうな勢いに眉を寄せ、さほど変わらないとはわかっていたが、再び腕時計に視線を戻した。
始業時間まではまだ時間があるから、遅刻というわけではないだろう。けれど彼女はなにか急いでいるようで、荒い呼吸が肩を上下させている。汗ばんだ額には前髪が張り付き、一カ所だけ跳ねた後ろ髪は誰に聞いても寝癖だと即答するような仕上がり。肩まで伸びた綺麗な黒髪も、それひとつで台無しだった。
この年で自分の身だしなみも気にしないのかと、ものめずらしげに見入っていると、誰かの突き刺す視線に気づいたのか彼女は息をのみ、ぺこりと頭を下げた。
「あっ!おはようございます」
巧は非常識からの常識的な行動に少々驚きながらも頷いて「おはよう」と返す。黒髪とは異なるライトブラウンの瞳が可愛らしい子だった。丸みのある輪郭に、くりくりした目を瞬かせる彼女。あまり見る顔ではなく、授業は担当外の接点もない生徒だということは明確だった。
やがてパッと色の変わった信号機から音楽が流れ出す。一歩踏み出そうとする人混みの中で、誰よりも早く駆け出したのは言うまでもなく彼女だった。
なかなかのスタートダッシュに巧が感心したのもつかの間、キキィィィィッという高いブレーキ音が響く。
(危ないっ!)
巧がそう思った時にはもう自分の身体は動いていた。誰かが目の前で危険な状態に陥ったからなのか、自分なら助けられると自負したからなのか。だが、彼女を深く知っているわけではなく、教師と生徒といってもたった今初めて言葉を交わしたに近い他人。思い止まる要素もいくつかあった。
それらを理解したのは瞬時で、今まで生きてきた中で一番機転をきかせた瞬間だったに違いない。まるで正義感の強いヒーローのような、そんな都合のいいヴィジョンを冴えた脳内が映し出す。肉体は応えるのに必死で邪念はなかった。
巧は横断歩道の上で硬直する陽菜を両腕で力いっぱい押し飛ばす。まるで深く突き刺さった棒のように固く、地面にめり込んだ鉛のように重かった。そんな感覚を感じるとともに、軽やかに宙を舞う自分に失望した。
うっすらと開いたまぶたの隙間から、静かに澄んだ青空が見える。一分なのか一秒なのか、それにも満たないのか、巧が思うよりも時というものはゆったりと流れていたらしい。強い日差しは相変わらずだったが、不思議と先ほどまでの騒がしさや暑苦しさはなくて、人と車と建物に埋もれたこの世界が意外にも美しく見えた。
「「きゃぁぁぁっ!」」
誰かの悲鳴が聞こえ、陽菜はゆっくりと身体を起こし周囲を見回した。記憶に残るのはけたたましいブレーキ音と、全身への強い衝撃。気がついたら、いつの間にか地面に寝そべっていた。そんな中、陽菜の視界に入ったのは、異様な光景だった。
「先生?」
道路の真ん中で無造作に止まる車と、そのさらに億で倒れている見覚えのある男性。横たわるその人はかすかに震えていた。苦しそうなうめき声が弱々しく消えていき、同時に赤黒く染まっていく。
ほんの数分前に挨拶を交わした相手が倒れている。陽菜はなにが起きたのかわからなかった。立ち上がる気力も出ずに、ただひたすら眺めることしかできない。
事故、救急車、値、怖い、気持ち悪い、迷惑、仕事。
無機質な単語がどこか違う次元から聞こえてくる。周りにはたくさんの人がいるのに、駆け寄るのは数人で傍観者ばかり。青と黄色のシグナルがやがて赤に変わり、大半の人が自分の現実に戻る。朦朧とする意識の中で、ぼんやりと見つめる陽菜自身も傍観者だった。
ぐるぐると回る目の前の景色に吐き気がしてきて、まるでフィクションの中で踊らされているようで、陽菜は置かれた状況に追いつくことができなかった。
「ーーな」
「陽菜っ!」
自分の名前を呼ばれ、はっとして息をのむと目の前には母がいた。
「陽菜、大丈夫!?」
「え?」
心配そうな顔をする母を見て、どうしたのと言いかけ鼻を刺すアルコールの臭いが現実へ引き戻す。ゆっくりと迫る車の残像が頭から離れない。赤色に染まっていく視界も架空の出来事なんかではないはずだ。
「ねぇ、お母さん。先生は?」
その問いに大きく瞳を揺れ動かした母は、陽菜の手を握りしめか細い声で答える。
「とても危険な状態みたい」
「そんな」
「いつ容態が急変するかわからないって」
震えをのみこむ姿を見て、じわじわと目の奥が熱くなる。最悪のことを思い浮かべてはかき消し、また思い浮かべてはかき消し、ぐちゃぐちゃになりそうな心をつなぎ止める。あふれそうな涙を流していいのかわからず、ただ必死にのみこんだ。
病院から帰宅後、放心状態のまま部屋にこもる陽菜を心配して母は何かと声をかけてくれた。しかし悪意などないのはわかっているが、無責任な押しつけにしか聞こえず受け入れることができない。
(本当は、私が・・・・・・)
そう考えるだけで死という恐怖がわかる。陽菜は唇を噛んだ。
「ごめん、お母さん。ひとりにして」
「そう。ゆっくり休んでね」
「うん」
ひとりになった部屋でベッドに腰を下ろし天井を仰ぐ。ほんの少し開いた窓から生温い風が入り込んだ。昼間の暑さが嘘のように、不思議と今夜は肌寒い。
「どうしよう」
自分の身代わりになった人が生死の境をさ迷っている。耐え切れずにつぶやいたその時、静かな部屋に聞き慣れない声が響いた。
「じゃあ、俺の変わりに死んでよ」
「え!?」
「死ねるの?」
「い、っ」
「嫌?」
真っ白の綺麗なワイシャツとブラックのタイトなスラックス姿は、今朝挨拶を交わしたあの時と同じ。その彼は今、病院にいるはずの彼は今、目の前で腕を組み堂々と立っている。ドクンドクンと心臓が痛いほど高鳴った。
(ありえない、ありえない)
陽菜は心の中で呪文のように繰り返す。
「青になっても左右見てから渡れって、親に言われなかったか?」
「先生」
巧の試すような冷たい瞳に体中の血の気が引いていく。淡々と話すその存在は見間違いなんかではない。陽菜は恐る恐る口を開いた。
「ほんとに、先生?」
「他の誰に見えるの」
「どうしてここに」
「死んだから」
陽菜はゴクリと唾をのんだ。一度合った視線は強く、逸らすことを許さない。神妙な顔つきで、一歩、また一歩と近づいてくる巧からは怒りも悲しみも感じられない。あまりにも平静過ぎて気味が悪かった。
「呪ってやるから、覚悟しろよ」
冷や汗が吹き出し、背筋が凍るような寒気がする。なにか叫ぼうにも喉が強張り息さえできず、足はすくんで逃げることはおろか立つこともできない。金縛りにあったかのように身体が言うことを聞かなかった。
しかし自分を救ってくれた恩人であり、生死の境をさ迷っていたはずの彼に、陽菜は何を言ったらいいのかわからない。ごめんなさい、ありがとう、命乞いの言葉も探した。ひとりの人間が死んでしまったのに、まだ保守的なことを考えている自分を最低だと思う。けれども。
「私は、生きたいです」
これしかなくて震える声で告げる。彼は一瞬だけ冷たい目を見開き、深いため息をついた。
「それ、俺に言う?」
「あっ」
陽菜は慌てて口もとを抑えた。あまりに無神経で身勝手な言葉を自覚して、たちまち蒼白していた顔が赤く染まる。もう自分自身が情けないとうなだれた。巧はまた深くため息をつくと、一呼吸おいて口を開いた。
「お前のせいで死んだんだ。成仏するまで付き合えよ」
つい先ほどまで首をしめつけるかのような気迫をまとっていた彼が、今はニヤリと口角を上げている。それでも有無をも言わせぬ威圧感に圧倒され困惑していると、ふわりと陽菜の隣に腰を下ろした。思わずびくりと肩が震え緊張が走る。目を強くつむり身構えたのだが、意外にも笑い声が響いた。
「あの、先生?」
そっと片目を開き様子をうかがうと、巧は申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめん、なにもしないって」
「え?」
「ほら、触れない」
左手で陽菜の肩を何度かかすめた後、その手を天井で光る蛍光灯に向ける。よく見ると身体は透けていて、彼自身を見ようとしなければ、いつもの景色が遮られることなく広がっていた。笑っていても自分を透かして見る姿はどこか切なそうで胸がしめつけられる。なにも言えずにいると、伏し目がちで問いかけられた。
「ところで怪我、大丈夫?」
「けが?」
「そんなもんで済んだんだから感謝しとけ。そのうち治るよ」
何のことかわからず視線の先を見れば、右腕と右足にぐるぐると包帯が巻きついている。気づく余裕もなかった陽菜は驚き、手足をしげしげと見て事故の重大さを痛感した。
「治らなくても、いいです」
「なんで」
「こんなの、先生に比べたらなんでもない」
「そうか」
巧は眉間に皺を寄せて沈黙する。それに陽菜は、また浅はかなことを言ってしまったのだろうかと焦った。
「まぁ、今日のところはもう寝ろ!」
そんな陽菜をよそに巧はいきなり声を張る。
「ほら、さっさと寝る!目つむる!」
「は、はいっ」
促され慌てて布団に横になる。しかしその場に座ったままの巧が気になりとても眠りになんて就けない。巧の行動も現れた真意も理解できないまま、言う通りにひたすら目を閉じた。
しんとした部屋に時計の秒針だけが響く。時を刻む音に耳を傾けると、不思議と心音が重なって命を感じた。それを実感すると押し込めていた思いがあふれ、脳裏に焼きついた交差点が蘇る。とうとう一筋の涙が頬を伝い、湿った吐息が漏れた。泣きたいのは彼のほうだと思っても、込み上げる熱い涙が止まらない。
「先生、助けてくれて、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「怖くて、動けなかった」
「うん」
「死んじゃうかと思った」
「うん」
「先生」
「ん?」
「ごめんなさい」
「まいったな」
巧は困ったように眉を下げ微笑む。小さな謝罪は、最後は声にならないような声で、陽菜は途切れるまで泣き続けた。疲れきっていた身体が意識を手放しそうになる時、カーテンを揺らし入り込んだ夜風が頬を撫でる。それはまるで彼になだめられているようだった。
「助けたのは俺の勝手だから、お前のせいじゃないよ」
陽菜の張り詰めていた何かがプツンと切れる。突然現れた彼は、とても優しかった。
相沢陽菜(あいざわひな)は焦っていた。夏休み前、最後の登校日。めずらしく早起きをして学校へ行く準備をしている時に起きた重大問題。
「せっかく終わったのに、どこ!?」
部屋中ひっくり返して探すも、一向に見つからない数学のレポート。数学の先生に頼み込んで延ばしてもらった期限は今日の朝までで、この提出に間に合わなければ夏休みは補修になってしまう。
陽菜は一度、深呼吸をして目を閉じた。
「レポートを書き終わったのは昨日の放課後・・・・・・」
同じく正規の期限に間に合わなかった親友の茜(あかね)と、教室で居残りをして取り組んでいた。なんとか形になり一息ついたところで時計を見ると、アルバイトの開始時間ギリギリだということに気づく。慌てて筆箱や教科書を鞄に突っ込み、ひとり先に教室を飛び出した。
「バイト先かも!」
確証はないが可能性に賭けるしかない。毎日夏休みに入るまでを指折り数えて待ち望んでいたのだ。
(ここで諦めてたまるものか!私の夏休み!)
より一層の狂気をはらみ、朝食を用意してくれていた母が驚き、声をあげるよりも早く玄関に飛び込む。古くて立て付けの悪いそのドアをガンッと蹴り開けた。
「ごめん、いってきます!」
時を同じくして、駅の改札を出る男性がひとり。
例え耳をふさいでも視界から入り込んでくる騒音と、隙間のないほど行き交う人々の熱気に眉を寄せた。そして雲をも通り越してじりじりと照りつける太陽と、体感温度を三度は上昇させる虫の泣き声に苛立ちを覚える。
こんな清々しい朝の通勤ラッシュにのみこまれぬよう人の波に乗り、不機嫌を募らせながら勤務先へ向かう彼、長谷川巧(はせがわたくみ)は私立高校の教師をしている。着任三年目でクラスも受け持ち、教師としてそれなりに充実した日々。
明日には夏休みだ。夏期講習や部活動はあるものの、学生濃度は確実に薄れこの地獄は少しマシになるだろう。しかしそれでも、今日という一日が始まることに、自然と落胆のため息をついた。
目的地まであと少しのところで、赤色に変わった信号機に足止めされ軽く舌打ちをする。点字ブロックの手前に立ち、手持ちぶさたに腕時計を見た。
「十五分か」
八時十五分を指した文字盤が光を反射してきらりと光る。今日の日程だとか職員会議の内容だとかを悶々と考えていると、後方が少しざわめいた。
次の瞬間、最前線に躍り出たのは、一日中嫌でも目にする制服を着た女子高生。巧は目的地が同じであることを理解して、彼女の非常識さを横目で睨む。しかし、本人はただひたすら信号機と横切る無数の車を交互に追い、きょろきょろと首を振る。今にも飛び出しそうな勢いに眉を寄せ、さほど変わらないとはわかっていたが、再び腕時計に視線を戻した。
始業時間まではまだ時間があるから、遅刻というわけではないだろう。けれど彼女はなにか急いでいるようで、荒い呼吸が肩を上下させている。汗ばんだ額には前髪が張り付き、一カ所だけ跳ねた後ろ髪は誰に聞いても寝癖だと即答するような仕上がり。肩まで伸びた綺麗な黒髪も、それひとつで台無しだった。
この年で自分の身だしなみも気にしないのかと、ものめずらしげに見入っていると、誰かの突き刺す視線に気づいたのか彼女は息をのみ、ぺこりと頭を下げた。
「あっ!おはようございます」
巧は非常識からの常識的な行動に少々驚きながらも頷いて「おはよう」と返す。黒髪とは異なるライトブラウンの瞳が可愛らしい子だった。丸みのある輪郭に、くりくりした目を瞬かせる彼女。あまり見る顔ではなく、授業は担当外の接点もない生徒だということは明確だった。
やがてパッと色の変わった信号機から音楽が流れ出す。一歩踏み出そうとする人混みの中で、誰よりも早く駆け出したのは言うまでもなく彼女だった。
なかなかのスタートダッシュに巧が感心したのもつかの間、キキィィィィッという高いブレーキ音が響く。
(危ないっ!)
巧がそう思った時にはもう自分の身体は動いていた。誰かが目の前で危険な状態に陥ったからなのか、自分なら助けられると自負したからなのか。だが、彼女を深く知っているわけではなく、教師と生徒といってもたった今初めて言葉を交わしたに近い他人。思い止まる要素もいくつかあった。
それらを理解したのは瞬時で、今まで生きてきた中で一番機転をきかせた瞬間だったに違いない。まるで正義感の強いヒーローのような、そんな都合のいいヴィジョンを冴えた脳内が映し出す。肉体は応えるのに必死で邪念はなかった。
巧は横断歩道の上で硬直する陽菜を両腕で力いっぱい押し飛ばす。まるで深く突き刺さった棒のように固く、地面にめり込んだ鉛のように重かった。そんな感覚を感じるとともに、軽やかに宙を舞う自分に失望した。
うっすらと開いたまぶたの隙間から、静かに澄んだ青空が見える。一分なのか一秒なのか、それにも満たないのか、巧が思うよりも時というものはゆったりと流れていたらしい。強い日差しは相変わらずだったが、不思議と先ほどまでの騒がしさや暑苦しさはなくて、人と車と建物に埋もれたこの世界が意外にも美しく見えた。
「「きゃぁぁぁっ!」」
誰かの悲鳴が聞こえ、陽菜はゆっくりと身体を起こし周囲を見回した。記憶に残るのはけたたましいブレーキ音と、全身への強い衝撃。気がついたら、いつの間にか地面に寝そべっていた。そんな中、陽菜の視界に入ったのは、異様な光景だった。
「先生?」
道路の真ん中で無造作に止まる車と、そのさらに億で倒れている見覚えのある男性。横たわるその人はかすかに震えていた。苦しそうなうめき声が弱々しく消えていき、同時に赤黒く染まっていく。
ほんの数分前に挨拶を交わした相手が倒れている。陽菜はなにが起きたのかわからなかった。立ち上がる気力も出ずに、ただひたすら眺めることしかできない。
事故、救急車、値、怖い、気持ち悪い、迷惑、仕事。
無機質な単語がどこか違う次元から聞こえてくる。周りにはたくさんの人がいるのに、駆け寄るのは数人で傍観者ばかり。青と黄色のシグナルがやがて赤に変わり、大半の人が自分の現実に戻る。朦朧とする意識の中で、ぼんやりと見つめる陽菜自身も傍観者だった。
ぐるぐると回る目の前の景色に吐き気がしてきて、まるでフィクションの中で踊らされているようで、陽菜は置かれた状況に追いつくことができなかった。
「ーーな」
「陽菜っ!」
自分の名前を呼ばれ、はっとして息をのむと目の前には母がいた。
「陽菜、大丈夫!?」
「え?」
心配そうな顔をする母を見て、どうしたのと言いかけ鼻を刺すアルコールの臭いが現実へ引き戻す。ゆっくりと迫る車の残像が頭から離れない。赤色に染まっていく視界も架空の出来事なんかではないはずだ。
「ねぇ、お母さん。先生は?」
その問いに大きく瞳を揺れ動かした母は、陽菜の手を握りしめか細い声で答える。
「とても危険な状態みたい」
「そんな」
「いつ容態が急変するかわからないって」
震えをのみこむ姿を見て、じわじわと目の奥が熱くなる。最悪のことを思い浮かべてはかき消し、また思い浮かべてはかき消し、ぐちゃぐちゃになりそうな心をつなぎ止める。あふれそうな涙を流していいのかわからず、ただ必死にのみこんだ。
病院から帰宅後、放心状態のまま部屋にこもる陽菜を心配して母は何かと声をかけてくれた。しかし悪意などないのはわかっているが、無責任な押しつけにしか聞こえず受け入れることができない。
(本当は、私が・・・・・・)
そう考えるだけで死という恐怖がわかる。陽菜は唇を噛んだ。
「ごめん、お母さん。ひとりにして」
「そう。ゆっくり休んでね」
「うん」
ひとりになった部屋でベッドに腰を下ろし天井を仰ぐ。ほんの少し開いた窓から生温い風が入り込んだ。昼間の暑さが嘘のように、不思議と今夜は肌寒い。
「どうしよう」
自分の身代わりになった人が生死の境をさ迷っている。耐え切れずにつぶやいたその時、静かな部屋に聞き慣れない声が響いた。
「じゃあ、俺の変わりに死んでよ」
「え!?」
「死ねるの?」
「い、っ」
「嫌?」
真っ白の綺麗なワイシャツとブラックのタイトなスラックス姿は、今朝挨拶を交わしたあの時と同じ。その彼は今、病院にいるはずの彼は今、目の前で腕を組み堂々と立っている。ドクンドクンと心臓が痛いほど高鳴った。
(ありえない、ありえない)
陽菜は心の中で呪文のように繰り返す。
「青になっても左右見てから渡れって、親に言われなかったか?」
「先生」
巧の試すような冷たい瞳に体中の血の気が引いていく。淡々と話すその存在は見間違いなんかではない。陽菜は恐る恐る口を開いた。
「ほんとに、先生?」
「他の誰に見えるの」
「どうしてここに」
「死んだから」
陽菜はゴクリと唾をのんだ。一度合った視線は強く、逸らすことを許さない。神妙な顔つきで、一歩、また一歩と近づいてくる巧からは怒りも悲しみも感じられない。あまりにも平静過ぎて気味が悪かった。
「呪ってやるから、覚悟しろよ」
冷や汗が吹き出し、背筋が凍るような寒気がする。なにか叫ぼうにも喉が強張り息さえできず、足はすくんで逃げることはおろか立つこともできない。金縛りにあったかのように身体が言うことを聞かなかった。
しかし自分を救ってくれた恩人であり、生死の境をさ迷っていたはずの彼に、陽菜は何を言ったらいいのかわからない。ごめんなさい、ありがとう、命乞いの言葉も探した。ひとりの人間が死んでしまったのに、まだ保守的なことを考えている自分を最低だと思う。けれども。
「私は、生きたいです」
これしかなくて震える声で告げる。彼は一瞬だけ冷たい目を見開き、深いため息をついた。
「それ、俺に言う?」
「あっ」
陽菜は慌てて口もとを抑えた。あまりに無神経で身勝手な言葉を自覚して、たちまち蒼白していた顔が赤く染まる。もう自分自身が情けないとうなだれた。巧はまた深くため息をつくと、一呼吸おいて口を開いた。
「お前のせいで死んだんだ。成仏するまで付き合えよ」
つい先ほどまで首をしめつけるかのような気迫をまとっていた彼が、今はニヤリと口角を上げている。それでも有無をも言わせぬ威圧感に圧倒され困惑していると、ふわりと陽菜の隣に腰を下ろした。思わずびくりと肩が震え緊張が走る。目を強くつむり身構えたのだが、意外にも笑い声が響いた。
「あの、先生?」
そっと片目を開き様子をうかがうと、巧は申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめん、なにもしないって」
「え?」
「ほら、触れない」
左手で陽菜の肩を何度かかすめた後、その手を天井で光る蛍光灯に向ける。よく見ると身体は透けていて、彼自身を見ようとしなければ、いつもの景色が遮られることなく広がっていた。笑っていても自分を透かして見る姿はどこか切なそうで胸がしめつけられる。なにも言えずにいると、伏し目がちで問いかけられた。
「ところで怪我、大丈夫?」
「けが?」
「そんなもんで済んだんだから感謝しとけ。そのうち治るよ」
何のことかわからず視線の先を見れば、右腕と右足にぐるぐると包帯が巻きついている。気づく余裕もなかった陽菜は驚き、手足をしげしげと見て事故の重大さを痛感した。
「治らなくても、いいです」
「なんで」
「こんなの、先生に比べたらなんでもない」
「そうか」
巧は眉間に皺を寄せて沈黙する。それに陽菜は、また浅はかなことを言ってしまったのだろうかと焦った。
「まぁ、今日のところはもう寝ろ!」
そんな陽菜をよそに巧はいきなり声を張る。
「ほら、さっさと寝る!目つむる!」
「は、はいっ」
促され慌てて布団に横になる。しかしその場に座ったままの巧が気になりとても眠りになんて就けない。巧の行動も現れた真意も理解できないまま、言う通りにひたすら目を閉じた。
しんとした部屋に時計の秒針だけが響く。時を刻む音に耳を傾けると、不思議と心音が重なって命を感じた。それを実感すると押し込めていた思いがあふれ、脳裏に焼きついた交差点が蘇る。とうとう一筋の涙が頬を伝い、湿った吐息が漏れた。泣きたいのは彼のほうだと思っても、込み上げる熱い涙が止まらない。
「先生、助けてくれて、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「怖くて、動けなかった」
「うん」
「死んじゃうかと思った」
「うん」
「先生」
「ん?」
「ごめんなさい」
「まいったな」
巧は困ったように眉を下げ微笑む。小さな謝罪は、最後は声にならないような声で、陽菜は途切れるまで泣き続けた。疲れきっていた身体が意識を手放しそうになる時、カーテンを揺らし入り込んだ夜風が頬を撫でる。それはまるで彼になだめられているようだった。
「助けたのは俺の勝手だから、お前のせいじゃないよ」
陽菜の張り詰めていた何かがプツンと切れる。突然現れた彼は、とても優しかった。
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