意地悪な先生と過ごす夏休み
11
八月も残り二日。昨日始業式を迎えたばかりだが、今日は土曜日。夏休みの続きのような休日だった。その調子で昼頃にやっと起き出した陽菜に、巧は頭を抱える。
「お前、そんなんで大丈夫かぁ?」
「なにがです?」
「俺がいなくなったら墜落一直線だな」
「え……」
「この際言わせてもらうけどな。くれぐれも道路には飛び出さないように!そもそも、まず早起きをしろ」
(いなく、なったら……)
陽菜なりに腹をくくって、割り切れたと思っていた。涙で過ごすより、笑顔で過ごそうと思っていた。
「あとは、変な奴に引っかかるなよ。お前ボケーッとしてるから。騙されて連れ込まれても助けてくれる人なんていないんだからな」
「そんな」
「素直なのは良いところだけどな、なんでもかんでも信じるなってこと」
「はい」
「夜道にフラフラすんのも宜しくないな。あ、あと部屋もなるべく片付けること。それから」
「ちょっと顔洗ってきます」
「おい?」
こんなのまるで別れ際のやり取りだ。陽菜は俯いたまま部屋を出た。泣いたら巧を困らせてしまう。自分に泣く資格なんて、彼を引き止める資格なんてない。
「っ、うぅ、ひっく」
こんな涙を流すのは、せめて巧のいないところでと、あふれるだけ涙を流す。顔を上げたら、もう泣かないように。彼が安心できるよう、心から楽しめるよう、自分が最後にできることをせいいっぱいするのだと、心を固めた。
思うだけ涙を流し、顔を洗った後に洗面所を出ると、巧が壁に寄りかかって待っていた。鉢合わせて目が合うと、陽菜の赤い目もとを見た巧は寂しそうに瞳を濁す。しかし、しんみりとした空気を払うかのように、陽菜はニコリと微笑み巧の前に立った。
タンッと巧の両側から手のつく音がする。巧は目を丸くし言葉をなくした。陽菜は巧を閉じ込め、じっと見つめ上げる。そうして背伸びをして、ゆっくりと巧の頬に唇を寄せた。
「うん、よし。私は元気です」
「え?」
「さぁ、巧さん。お出かけしますよ」
「は?」
今ならなんでもできる気がする。強気の陽菜はスタスタと部屋へ戻り着替えを始める。後からのろのろと入ってきた巧は、相変わらず目を丸くしていた。真顔のまま頬に手を当ててつぶやく。
「俺、死んでて良かった。今すごくドキドキしてる」
「えっ、あっ!私、つい」
何かに取り憑かれたかのように思考を行動に任せてしまった陽菜は、自分のしたことに気づいて真っ赤になった。なんだかお互いに気まずいまま、ふたりは逃げるように外へ飛び出した。
鋭い陽射しに目がくらむ。昼間はまだまだ暑いけれど、最近は朝晩冷え込むこともあり、夏の終わりを感じて少し寂しい。またしんみりしそうになって、慌てて陽菜は巧へ他愛もないことを話しかけた。が、いくら待っても返答がない。陽菜はしびれを切らして声を張った。
「巧さんっ!聞いてます?」
「はい!?」
「なんかボーッとしてません?」
心配して顔を覗き込むと、巧はポッと頬を染めた。
「いや、俺」
「どうしたんですか?」
「女に迫られてなにもできなかったの、初めて」
「もうっ、それは忘れてください!」
「いいや忘れられないね。俺の一生涯の不覚だね」
「私のほうが不覚だったんですよ」
「頼む。もう一回やってくれ。倍にして返すから!」
「へっ、変態!」
陽菜は考える前に身体が動いていた。ただそれだけ。だから余計恥ずかしいのだが。
「それより行きたいところ、ありますか?」
「特にないな」
「ですよね。じゃあ私に付き合ってください」
行き先も告げず、巧を連れてきたのはアパレルショップ。目的地に到着して品定めを始めた陽菜を不思議そうに見つめた。
「買い物したかったの?」
「はい。服がほしいんです」
「ふーん」
「巧さんはどれがいいと思いますか?」
「俺?」
「私が選ぶと似たような物ばっかりで。巧さんに見立ててもうらおうかなって」
「えー、じゃまずは下着からじゃね?」
「はぁっ!?」
そう言ってニヤニヤと腕を組み、上から下まで舐めるように見る。巧の視線だけで身体が熱くなる自分はおかしいのかもしれないと陽菜は甘い息をのみ込んだ。
「なぁ、これ着てみ?」
「え?」
「ほら、試着」
からかっているのかと思えば、しっかり品は定めていたようで、巧が指差した服を促されるまま試着する。白のオフショルダーブラウスに、ショートパンツの可愛い組み合わせだった。試着室の中で鏡に写る自分を眺め、着てみると少し大人っぽいデザインだなと感嘆する。
「うん。可愛い」
不意に耳もとで声がして、振り向くと柔らかく微笑んだ巧がいた。
「えっ、巧さん!いつから」
「それ似合うよ」
「そうかな。背中とか丈とか、露出が多い気がするんですけど」
「俺は好きだけど」
「好きですか?」
「うん」
好きの言葉に反応して、いつもより高価な金額にも関わらず、意図も簡単にレジへと出した。
「本当に買うの?」
「満足しているので。ありがとうございます」
「俺が買ってやれたら良かったんだけど」
「えっ、私が着るんですから」
「いいや。選んだんだから裸にするまで責任持たないと」
「はだっ、巧さん!」
もうっと振り回したショップ袋は近くのトルソーに当たり、それがまた他の展示に当たりと、ドミノ倒しになっていく。ショップの店員に平謝りをする陽菜を見て、巧は楽しそうにケラケラと笑っていた。
服を買って帰宅すると、陽菜は少しだけ部屋を片付ける。散乱していた物を拾い集めて、脱ぎ捨てた服は洗濯へ。ゴミはごみ箱へ。
「なんだぁ?」
「ちょこっと片付けただけですが、なにか?」
「いえ、なにも」
巧は大分驚いていたが、こんなの序の口だ。陽菜はふふんと鼻を鳴らして、今日買った服をハンガーにかけた。
「明日はこれを着てデートしましょうね」
「えっ」
「え、ダメですか?」
「いやダメっていうか、これ着ていくの?」
「だって、せっかく巧さんに選んでもらったから」
「うーん」
渋る巧に陽菜は不安になる。
「もしかして、やっぱり似合わなかったってことですか?」
「そうじゃないけど」
「けど?」
「そんな格好して歩いてたら、また余計なのが寄ってくんだろ」
「えっ」
「ひとりで歩かせることまで考えてなかったっていうか」
「巧さん、ヤキモチですか?」
「えっ、まぁ。そうかもしれない」
半信半疑で聞いたことを素直に肯定され、また巧は言われて初めて腑に落ち、ふたりは顔を見合わせて真っ赤になった。
「お、お風呂入ってきます」
「うん」
陽菜は思考が停止したまま、少し頭を冷やそうと早めの入浴へ向かう。ふたりきりでいることに気まずい気持ちと、巧がヤキモチを妬くなんてという嬉しい気持ちを湯舟に沈めた。身体も心も余計茹で上がることになったのだが。
部屋へ戻りベッドへ落ち着くと、陽菜は本を開く。すると巧も何も言わずに隣に並んだ。もうこれは習慣。気のせいか、陽菜は今になって巧の温もりを感じるようになった。そっと身を任せたい、わたあめのようにフワフワとした空気だった。
ふたりの読む物語は、もうすぐ王子様が帰る。お別れの時がくる。心がざわざわした。お互いに言えないけれど、明日にはきっと読み終わってしまう。
眠りたくないのに、なぜか今日に限って深い睡魔にのみ込まれそうだった。陽菜は静かに本を閉じると、ベッドに横になり巧に問いかける。
「今日、楽しかったですか?」
「え?あぁ」
「よかった。明日はもっと、楽しいです、よ」
眠りの淵で、巧の手が頭を撫でる。陽菜が目を閉じるのを見て微笑んだ。
「お前といると、いつも楽しい」
翌朝。
「おはよう、ございます」
「おはよう。アラームで目覚めるなんて、やけに早いな」
「……うぐぅ」
「寝惚けたのか?」
「はっ!」
「大丈夫か?」
「はい。がんばらなくちゃ」
「え?」
陽菜はパンパンと両手で自分の頬を叩き、ベッドから起き上がる。そして巧を部屋から追い出して、早々に支度を始めた。それから三十分。
「お待たせしました!」
巧が選んだコーディネートで身なりを整えた陽菜が元気に現れる。巧は陽菜の顔を見るなり、吸い込まれるように頬に両手を添えた。巧の大きな手のひらは、すっぽりと陽菜の顔を半分覆い、目尻で指先がちらつく。不思議に思って陽菜が名前を呼ぶと、手を離した彼がにこやかに笑った。
「お前、可愛いな」
せっかく選んでもらった服だから、雰囲気に合わせてメイクを少し大人っぽく、髪も巻いてみた。大好きな人に頑張ったお洒落を気づいてもらえる、誉めてもらえるのは想像以上に嬉しい。
「化粧だなんだしたわりに早かったな」
「毎朝の寝坊で準備の速さには自信があります」
「そこ自信あっちゃいけないんだけどな」
「うっ」
クスリと笑って目を細める巧に陽菜は見とれる。今日は巧の笑顔をたくさん見たいと思っていた。写真には撮れないけれど、目に焼きつけたい。
「さぁ、時間がもったいないです!出発しますよ」
「どこ行くつもり?」
「遊園地です!」
ここなら楽しい一日を過ごせるはずだと陽菜は確信していた。すべて忘れて、夢のような思い出をつくりたい。
「お前、昨日もだけど、金使いすぎじゃない?大丈夫なのか?」
「お気遣いなく」
「無理しなくていいんだぞ」
「本当に大丈夫です」
「でもな、俺は俺のためにそういうことさせたくないんだよ」
陽菜は巧の言いたいこともよくわかった。たしかに無理はしている。しかし、巧のためだけではなかった。
「誕生日なんです」
「誰が?」
「私、明日で十七歳なんです」
「嘘じゃないだろうな」
「本当ですよ。前にもう少しで誕生日って言ったじゃないですか」
「あぁ」
「だからこれは私の我が儘。私のために一緒に行ってください」
十六歳最後の日に、巧と最高の思い出をつくりたい。お別れの時間がくるまでふたりで楽しく過ごしたい。
「よし。なら付き合う。遊び倒すぞ!」
電車を乗り継ぎ一時間。陽菜は夜までイベントのある遊園地を選んだ。身体を休めたら、きっと笑顔が崩れてしまう。陽菜が笑わないと、巧も笑ってくれないと思ったから。
「わーい、私、遊園地って初めて来たんです!」
「俺も」
「えっ、デートスポットじゃないんですか?」
「そういうの面倒。俺がキャーキャーはしゃぐタイプに見える?」
「長谷川先生なら、気持ち悪いですね」
「そこまで言うか」
「もしかしてこういうところ、好きじゃなかった?」
「ま、お前と来るなら有りだな」
「本当に?」
巧は頷く代わりに微笑んだ。陽菜は彼の中での自分のポジションがうれしくて、唇を噛みしめる。彼女として、巧のトクベツな自分は幸せだった。
「キャー!楽しいっ」
風を切って走るジェットコースター。足をふらつかせながら出口を出ると、巧はガバッと陽菜に飛びついてきた。息を切らせて笑いながら、片手で陽菜を囲うようにして、頭をわしゃわしゃとかき混ぜる。
ーー本当だったら髪の毛をぐしゃぐしゃにされて、きっと陽菜は怒るだろう。
「お前叫びすぎ」
「巧さんこそ、怖かったんでしょ?」
「余裕だし」
ーーそして巧の腕に思いっきり飛びついて、よろけた彼を引っ張って走りだす。
お腹が空いたらワゴンを見つけて、ハニーチュロスを食べながらベンチに座って一休み。
「おいしい」
「甘ったるそう」
ーー味の違う物をそれぞれふたりで買って、一口どうぞの食べさせ合いをする。巧の食べているほうが陽菜の好みで、取り返すかもしれない。
「ポップコーンも食べたいなぁ」
「お前の頭の中は、食べ物と寝ることしかないのか?」
「うーん。あと巧さん」
陽菜がニコニコしていると、瞼に巧に唇が近づいた。
「お前、蜂蜜の匂いがする」
「こんなところでっ」
真っ赤になって立ち上がると、巧はクスクスと笑う。そのままガーデニングを眺めながら、少しだけ食後の散歩をした。目が合うたび、巧はわずかに口角を上げる。
ーー陽菜はそれが嬉しくて、勇気を出して彼の指に自分の指を絡める。だんだん甘い雰囲気になって、強引なところのある巧は恥じらう陽菜を簡単に捕まえてしまう。そして人目を忍んでキスをする。
そんなデートができたらなと陽菜が考えていると、巧はフッと息を吐いた。
「どこへ行くのかと思えば」
「え?」
「てっきり水族館かと思ったけどな」
「だって水族館は」
本当のデートで行きなさいって、そう言われたから。あの時は巧にとって陽菜は暇つぶしの相手だからとか、本当の彼女じゃないからだとか、そういう理由で断られたのかと思った。けれども、巧は陽菜のために言ったのだと今ならわかる。陽菜の、いつかのために。
巧は自分が足枷になるのを嫌う人。優しい人だから、陽菜もその思いを無駄にはしたくなかった。
「こっちのほうが、お子様な私にピッタリでしょ?」
あわよくば、解けない魔法にかかることを期待して、観覧車にコーヒーカップ、お化け屋敷と、遊び倒した。
巧が疲れたというと、陽菜は自分に誕生日プレゼントを買うとショップへ向かい歩き出した。買い物は休憩と一緒らしい。
「ずっと、なくならない物」
「え?」
「ずっと大切にできる物を買いたいな」
巧は困ってしまった。陽菜は叶わないと知りながら、巧との未来を望む。そんな物が残ってしまったら、呪いのアイテムにならないだろうか。
「誕生日に、自分へのご褒美ですから」
「ご褒美?」
「巧さんへの未練とかじゃないですからね!自惚れないでくださいね!」
そんなの嘘だということくらい、陽菜の顔を見れば明け透けだった。ただ、この嘘には乗らなければならない。
「あーあ。なんてひどい彼女だ」
「えっ、えっと、あの」
「こんなに図太ければ、俺も安心だよ」
「そっちこそ、酷い彼氏ですね」
「なんだって?」
「私も巧さんが心配だったんです」
「は?」
「本当は寂しがり屋のくせに素直に言えないし、優しいのに意地悪して誤魔化そうとするし」
「おいこら」
「まだまだありますよ?」
「まったく、この女は」
「んむっ!?」
うるさい時は口を塞ぐ。巧の顔が間近にあるだけでうろたえて静かになる陽菜の唇を、本当に塞げればどれだけ幸せか、巧は数えきれないほど考えてきた。目と目で触れ合うだけでは足りなかったけれど、頬を桃色に染めて黙ってプレゼントを選びはじめた陽菜を、巧は目に焼きつけた。
外を見るといつの間にか、空が哀しい色に染まっていた。巧はまさかこの世の最後の思い出を、こんなところで過ごすことになるとはなと哀愁に浸った。でも、とても良い気分だった。
買い物を終えた後、夜のイベント、打ち上げ花火の場所取りをすると陽菜は駆け出す。しかし、目的を果たす前に遊園地のキャラクターの着ぐるみとじゃれ合っていた。
「巧さん、見てっ!可愛いです」
「そうかぁ?ただの不気味な」
「はいストップ!そういうこと言ったらダメ」
巧は、改めて自分がこんな愉快な人と波長が合うなんて、思いもしなかったと思い返す。死んでまで人に気を遣いたくないから、嫌な奴だと思われても別に構わなくて。そんな軽いノリで素のままでいたら、彼女はやんわりと受け入れていた。変態だのセクハラだのいろいろ言われても、楽しかった。
「花火、場所取るんじゃないの?」
「そうだ!急ぎましょう」
陽菜の背中を追いながらため息をつくが、裏腹に巧の顔は大分緩んでいた。
やがて花火が始まると、歓声とともに色とりどりの光が辺りを照らす。生まれて花開き散っていく、まるで人の命のようだった。
「ねぇ、巧さん」
「ん?」
隣を横目で覗き見ると、陽菜は前を向きながらつぶやいた。
「読み終えたら、いなくなっちゃうんですよね」
「そうだな」
「ずっと一緒にいられますようにってお願い、叶わないかなぁ」
陽菜は健気に笑った。巧は何も答えられずにいた。ギリギリの場所にいたから。ここで甘い誘いに乗ってしまえば、たちまち崩壊してしまうと思った。
「私たち、ずっとこの夢の中にいられたらいいですね」
「うん」
そう、これは夢だ。もとに戻るだけ。もともと巧はいなかったのだから。どうか別れた後、それから先、陽菜が前を向いて歩けますようにと、大輪の華に願った。
帰り道、ふたりは何も話さなかった。ただ、魔法がまだかけられているかのような余韻に浸って、とても穏やかな時間だった。無言が心地良かった。何もないけれど、ふたりの手と手は、ずっと見えるように重ねられていた。
「あっ、夜道フラフラしちゃった」
駅から家までの間、思い出した陽菜はあっと声を上げる。
「最初はもう少し早く帰るつもりだったんですよ。でも、楽しくて」
「特別に見逃してやろう」
「えっ?」
「誕生日は特別優遇」
「明日ですけど」
「俺がいいって言ったらいいの」
「ふふ。ありがとうございます」
ふたりきりで夜道を歩く。月の綺麗な夜だった。月明かりは優しく降り注ぐ。夜空に浮かぶ大きな月は、とても近くに見えた。でも実際は手が届かないほど遠い。それはまるでふたりのようだった。
「今夜は流星群ですね」
「なんで泣くの」
「泣いてませんよ」
「泣くなよ」
「私の目にはこんなに星が降っているのに、やっぱり本物じゃないとだめなのかな」
「叶わないこともある。どうしようもないことだって、あるんだよ」
巧は優しく言った。だから陽菜も言う。
「心配しないで。私は大丈夫です」
早起きできるし、部屋だって片付けられる。変な人にも騙されない。もちろん宿題も勉強も、巧が見ていると思えばできてしまう。
「私は強いんです」
「昨日言い逃したけど、あとひとつ」
「なんですか?」
「辛い時は素直に誰かに話すこと」
「えっ」
「俺、心配だなぁ」
「それ、巧さんもですよ」
「そうだね」
どうにもならなかったとしても、ひとりで抱え込まないで、誰かと痛みを分かち合ってほしい。
「私、離れたくないです」
「うん。俺も」
「ずっと一緒にいたいです」
「うん」
「ずっとずっと、側にいてほしいです」
「うん」
終わりの予感がした。泣きながら家に着いた途端、いつも流れに委ねる始まりを、初めて巧が口にした。
「本、読もうか」
「はい」
読んでしまえば、物語は終わってしまう。でも陽菜にはもう、駄々をこねる力もなかった。泣き切って、思いを叫んで、心は怖いほど平静だった。
ベッドに隣同士で並ぶのも最後。初めはすごく緊張して、手に汗をかいたのを鮮明に覚えている。いつかと思っていた瞬間を迎えている不思議に、胸の鼓動が高まった。深呼吸をして、最後の一ページを読む。惜しむように、焦がれるように、めくれば愛が伝わるように。
「おめでとう」
「え?」
「誕生日」
時計を見ると、いつのまにか日付が変わっていた。巧は陽菜の瞳を覗き込んで微笑むと、前髪にそっとキスを落とした。未来をくれた人と、未来を奪った人。残酷にも巧の前で、陽菜はひとつ年を取る。
それでも好きすぎて、思いが涙のようにあふれてくる。でも、色も形もないものだから、言葉にしないと幻のまま。陽菜は巧へ、最後に愛を伝えたかった。
「私、巧さんのこと」
「ダメ」
「え?」
「それ以上言わないで」
最後だとわかっているのに、巧は拒んだ。巧だって、抱きしめてキスをして愛を伝えたかった。
「戻れなくなる。ずっと一緒にいたくなっちゃうから」
現実と幻の中で、ふたりはたしかに恋をした。それは思ったよりも幸福なカタストロフィー。静謐なひとときを見つめ合った。
「目が覚めたら、すべてが夢でありますように」
「どうして?」
毎晩陽菜が眠りに就く淵で、巧は柔らかな愛を落とした。ほんの少しでいいから、触れることができたらどんなに幸せだろうと、そんな夢を見て。
「巧さん?」
カーテンの隙間から差し込む月明かりが青白く辺りを照らす。すると意図も簡単に巧の身体は消え始めた。
「や、いやです!」
「こら」
「いやっ!」
「おい」
「やだ、やだっ!」
「陽菜」
巧は初めて名前を呼んだ。陽菜はピクリと肩を奮わせて、涙の瞳を見開く。惜しくなるから。それは最初で最後だった。
「俺、心残りができた」
「心残り?」
「ずっと側にいられないこと」
「巧さん」
「いつか、自分以外の誰かが君を守ること」
「私も嫌ですっ」
「綺麗になっていく君を、見られないこと」
陽菜から落ちた大粒の雫を掬おうと、伸ばした指先が彼女の頬をかすめる。あふれ落ちる数々の涙はそのまま、拭われることもなく服を湿らせていった。
「じゃあ、ここにいてくださいよ」
「それはできない」
「なんで」
「なぜなら君に、未来があるから」
歪む視界が煩わしい。それでも涙は止まらない。巧は陽菜の頬を両手で優しく包み込んだ。そうして額を寄せて、見つめ合う。
「君と過ごした時間は、俺にとって奇跡だった」
花火のようにキラキラと消えていく巧から、陽菜は最後の愛を受ける。切なくて、苦しくて、幸せだった。巧が消えた後、悔しくて、悲しくて、本を抱きしめて泣いた。
(さよなら、巧さん。ずっとずっと、大好きです)
「お前、そんなんで大丈夫かぁ?」
「なにがです?」
「俺がいなくなったら墜落一直線だな」
「え……」
「この際言わせてもらうけどな。くれぐれも道路には飛び出さないように!そもそも、まず早起きをしろ」
(いなく、なったら……)
陽菜なりに腹をくくって、割り切れたと思っていた。涙で過ごすより、笑顔で過ごそうと思っていた。
「あとは、変な奴に引っかかるなよ。お前ボケーッとしてるから。騙されて連れ込まれても助けてくれる人なんていないんだからな」
「そんな」
「素直なのは良いところだけどな、なんでもかんでも信じるなってこと」
「はい」
「夜道にフラフラすんのも宜しくないな。あ、あと部屋もなるべく片付けること。それから」
「ちょっと顔洗ってきます」
「おい?」
こんなのまるで別れ際のやり取りだ。陽菜は俯いたまま部屋を出た。泣いたら巧を困らせてしまう。自分に泣く資格なんて、彼を引き止める資格なんてない。
「っ、うぅ、ひっく」
こんな涙を流すのは、せめて巧のいないところでと、あふれるだけ涙を流す。顔を上げたら、もう泣かないように。彼が安心できるよう、心から楽しめるよう、自分が最後にできることをせいいっぱいするのだと、心を固めた。
思うだけ涙を流し、顔を洗った後に洗面所を出ると、巧が壁に寄りかかって待っていた。鉢合わせて目が合うと、陽菜の赤い目もとを見た巧は寂しそうに瞳を濁す。しかし、しんみりとした空気を払うかのように、陽菜はニコリと微笑み巧の前に立った。
タンッと巧の両側から手のつく音がする。巧は目を丸くし言葉をなくした。陽菜は巧を閉じ込め、じっと見つめ上げる。そうして背伸びをして、ゆっくりと巧の頬に唇を寄せた。
「うん、よし。私は元気です」
「え?」
「さぁ、巧さん。お出かけしますよ」
「は?」
今ならなんでもできる気がする。強気の陽菜はスタスタと部屋へ戻り着替えを始める。後からのろのろと入ってきた巧は、相変わらず目を丸くしていた。真顔のまま頬に手を当ててつぶやく。
「俺、死んでて良かった。今すごくドキドキしてる」
「えっ、あっ!私、つい」
何かに取り憑かれたかのように思考を行動に任せてしまった陽菜は、自分のしたことに気づいて真っ赤になった。なんだかお互いに気まずいまま、ふたりは逃げるように外へ飛び出した。
鋭い陽射しに目がくらむ。昼間はまだまだ暑いけれど、最近は朝晩冷え込むこともあり、夏の終わりを感じて少し寂しい。またしんみりしそうになって、慌てて陽菜は巧へ他愛もないことを話しかけた。が、いくら待っても返答がない。陽菜はしびれを切らして声を張った。
「巧さんっ!聞いてます?」
「はい!?」
「なんかボーッとしてません?」
心配して顔を覗き込むと、巧はポッと頬を染めた。
「いや、俺」
「どうしたんですか?」
「女に迫られてなにもできなかったの、初めて」
「もうっ、それは忘れてください!」
「いいや忘れられないね。俺の一生涯の不覚だね」
「私のほうが不覚だったんですよ」
「頼む。もう一回やってくれ。倍にして返すから!」
「へっ、変態!」
陽菜は考える前に身体が動いていた。ただそれだけ。だから余計恥ずかしいのだが。
「それより行きたいところ、ありますか?」
「特にないな」
「ですよね。じゃあ私に付き合ってください」
行き先も告げず、巧を連れてきたのはアパレルショップ。目的地に到着して品定めを始めた陽菜を不思議そうに見つめた。
「買い物したかったの?」
「はい。服がほしいんです」
「ふーん」
「巧さんはどれがいいと思いますか?」
「俺?」
「私が選ぶと似たような物ばっかりで。巧さんに見立ててもうらおうかなって」
「えー、じゃまずは下着からじゃね?」
「はぁっ!?」
そう言ってニヤニヤと腕を組み、上から下まで舐めるように見る。巧の視線だけで身体が熱くなる自分はおかしいのかもしれないと陽菜は甘い息をのみ込んだ。
「なぁ、これ着てみ?」
「え?」
「ほら、試着」
からかっているのかと思えば、しっかり品は定めていたようで、巧が指差した服を促されるまま試着する。白のオフショルダーブラウスに、ショートパンツの可愛い組み合わせだった。試着室の中で鏡に写る自分を眺め、着てみると少し大人っぽいデザインだなと感嘆する。
「うん。可愛い」
不意に耳もとで声がして、振り向くと柔らかく微笑んだ巧がいた。
「えっ、巧さん!いつから」
「それ似合うよ」
「そうかな。背中とか丈とか、露出が多い気がするんですけど」
「俺は好きだけど」
「好きですか?」
「うん」
好きの言葉に反応して、いつもより高価な金額にも関わらず、意図も簡単にレジへと出した。
「本当に買うの?」
「満足しているので。ありがとうございます」
「俺が買ってやれたら良かったんだけど」
「えっ、私が着るんですから」
「いいや。選んだんだから裸にするまで責任持たないと」
「はだっ、巧さん!」
もうっと振り回したショップ袋は近くのトルソーに当たり、それがまた他の展示に当たりと、ドミノ倒しになっていく。ショップの店員に平謝りをする陽菜を見て、巧は楽しそうにケラケラと笑っていた。
服を買って帰宅すると、陽菜は少しだけ部屋を片付ける。散乱していた物を拾い集めて、脱ぎ捨てた服は洗濯へ。ゴミはごみ箱へ。
「なんだぁ?」
「ちょこっと片付けただけですが、なにか?」
「いえ、なにも」
巧は大分驚いていたが、こんなの序の口だ。陽菜はふふんと鼻を鳴らして、今日買った服をハンガーにかけた。
「明日はこれを着てデートしましょうね」
「えっ」
「え、ダメですか?」
「いやダメっていうか、これ着ていくの?」
「だって、せっかく巧さんに選んでもらったから」
「うーん」
渋る巧に陽菜は不安になる。
「もしかして、やっぱり似合わなかったってことですか?」
「そうじゃないけど」
「けど?」
「そんな格好して歩いてたら、また余計なのが寄ってくんだろ」
「えっ」
「ひとりで歩かせることまで考えてなかったっていうか」
「巧さん、ヤキモチですか?」
「えっ、まぁ。そうかもしれない」
半信半疑で聞いたことを素直に肯定され、また巧は言われて初めて腑に落ち、ふたりは顔を見合わせて真っ赤になった。
「お、お風呂入ってきます」
「うん」
陽菜は思考が停止したまま、少し頭を冷やそうと早めの入浴へ向かう。ふたりきりでいることに気まずい気持ちと、巧がヤキモチを妬くなんてという嬉しい気持ちを湯舟に沈めた。身体も心も余計茹で上がることになったのだが。
部屋へ戻りベッドへ落ち着くと、陽菜は本を開く。すると巧も何も言わずに隣に並んだ。もうこれは習慣。気のせいか、陽菜は今になって巧の温もりを感じるようになった。そっと身を任せたい、わたあめのようにフワフワとした空気だった。
ふたりの読む物語は、もうすぐ王子様が帰る。お別れの時がくる。心がざわざわした。お互いに言えないけれど、明日にはきっと読み終わってしまう。
眠りたくないのに、なぜか今日に限って深い睡魔にのみ込まれそうだった。陽菜は静かに本を閉じると、ベッドに横になり巧に問いかける。
「今日、楽しかったですか?」
「え?あぁ」
「よかった。明日はもっと、楽しいです、よ」
眠りの淵で、巧の手が頭を撫でる。陽菜が目を閉じるのを見て微笑んだ。
「お前といると、いつも楽しい」
翌朝。
「おはよう、ございます」
「おはよう。アラームで目覚めるなんて、やけに早いな」
「……うぐぅ」
「寝惚けたのか?」
「はっ!」
「大丈夫か?」
「はい。がんばらなくちゃ」
「え?」
陽菜はパンパンと両手で自分の頬を叩き、ベッドから起き上がる。そして巧を部屋から追い出して、早々に支度を始めた。それから三十分。
「お待たせしました!」
巧が選んだコーディネートで身なりを整えた陽菜が元気に現れる。巧は陽菜の顔を見るなり、吸い込まれるように頬に両手を添えた。巧の大きな手のひらは、すっぽりと陽菜の顔を半分覆い、目尻で指先がちらつく。不思議に思って陽菜が名前を呼ぶと、手を離した彼がにこやかに笑った。
「お前、可愛いな」
せっかく選んでもらった服だから、雰囲気に合わせてメイクを少し大人っぽく、髪も巻いてみた。大好きな人に頑張ったお洒落を気づいてもらえる、誉めてもらえるのは想像以上に嬉しい。
「化粧だなんだしたわりに早かったな」
「毎朝の寝坊で準備の速さには自信があります」
「そこ自信あっちゃいけないんだけどな」
「うっ」
クスリと笑って目を細める巧に陽菜は見とれる。今日は巧の笑顔をたくさん見たいと思っていた。写真には撮れないけれど、目に焼きつけたい。
「さぁ、時間がもったいないです!出発しますよ」
「どこ行くつもり?」
「遊園地です!」
ここなら楽しい一日を過ごせるはずだと陽菜は確信していた。すべて忘れて、夢のような思い出をつくりたい。
「お前、昨日もだけど、金使いすぎじゃない?大丈夫なのか?」
「お気遣いなく」
「無理しなくていいんだぞ」
「本当に大丈夫です」
「でもな、俺は俺のためにそういうことさせたくないんだよ」
陽菜は巧の言いたいこともよくわかった。たしかに無理はしている。しかし、巧のためだけではなかった。
「誕生日なんです」
「誰が?」
「私、明日で十七歳なんです」
「嘘じゃないだろうな」
「本当ですよ。前にもう少しで誕生日って言ったじゃないですか」
「あぁ」
「だからこれは私の我が儘。私のために一緒に行ってください」
十六歳最後の日に、巧と最高の思い出をつくりたい。お別れの時間がくるまでふたりで楽しく過ごしたい。
「よし。なら付き合う。遊び倒すぞ!」
電車を乗り継ぎ一時間。陽菜は夜までイベントのある遊園地を選んだ。身体を休めたら、きっと笑顔が崩れてしまう。陽菜が笑わないと、巧も笑ってくれないと思ったから。
「わーい、私、遊園地って初めて来たんです!」
「俺も」
「えっ、デートスポットじゃないんですか?」
「そういうの面倒。俺がキャーキャーはしゃぐタイプに見える?」
「長谷川先生なら、気持ち悪いですね」
「そこまで言うか」
「もしかしてこういうところ、好きじゃなかった?」
「ま、お前と来るなら有りだな」
「本当に?」
巧は頷く代わりに微笑んだ。陽菜は彼の中での自分のポジションがうれしくて、唇を噛みしめる。彼女として、巧のトクベツな自分は幸せだった。
「キャー!楽しいっ」
風を切って走るジェットコースター。足をふらつかせながら出口を出ると、巧はガバッと陽菜に飛びついてきた。息を切らせて笑いながら、片手で陽菜を囲うようにして、頭をわしゃわしゃとかき混ぜる。
ーー本当だったら髪の毛をぐしゃぐしゃにされて、きっと陽菜は怒るだろう。
「お前叫びすぎ」
「巧さんこそ、怖かったんでしょ?」
「余裕だし」
ーーそして巧の腕に思いっきり飛びついて、よろけた彼を引っ張って走りだす。
お腹が空いたらワゴンを見つけて、ハニーチュロスを食べながらベンチに座って一休み。
「おいしい」
「甘ったるそう」
ーー味の違う物をそれぞれふたりで買って、一口どうぞの食べさせ合いをする。巧の食べているほうが陽菜の好みで、取り返すかもしれない。
「ポップコーンも食べたいなぁ」
「お前の頭の中は、食べ物と寝ることしかないのか?」
「うーん。あと巧さん」
陽菜がニコニコしていると、瞼に巧に唇が近づいた。
「お前、蜂蜜の匂いがする」
「こんなところでっ」
真っ赤になって立ち上がると、巧はクスクスと笑う。そのままガーデニングを眺めながら、少しだけ食後の散歩をした。目が合うたび、巧はわずかに口角を上げる。
ーー陽菜はそれが嬉しくて、勇気を出して彼の指に自分の指を絡める。だんだん甘い雰囲気になって、強引なところのある巧は恥じらう陽菜を簡単に捕まえてしまう。そして人目を忍んでキスをする。
そんなデートができたらなと陽菜が考えていると、巧はフッと息を吐いた。
「どこへ行くのかと思えば」
「え?」
「てっきり水族館かと思ったけどな」
「だって水族館は」
本当のデートで行きなさいって、そう言われたから。あの時は巧にとって陽菜は暇つぶしの相手だからとか、本当の彼女じゃないからだとか、そういう理由で断られたのかと思った。けれども、巧は陽菜のために言ったのだと今ならわかる。陽菜の、いつかのために。
巧は自分が足枷になるのを嫌う人。優しい人だから、陽菜もその思いを無駄にはしたくなかった。
「こっちのほうが、お子様な私にピッタリでしょ?」
あわよくば、解けない魔法にかかることを期待して、観覧車にコーヒーカップ、お化け屋敷と、遊び倒した。
巧が疲れたというと、陽菜は自分に誕生日プレゼントを買うとショップへ向かい歩き出した。買い物は休憩と一緒らしい。
「ずっと、なくならない物」
「え?」
「ずっと大切にできる物を買いたいな」
巧は困ってしまった。陽菜は叶わないと知りながら、巧との未来を望む。そんな物が残ってしまったら、呪いのアイテムにならないだろうか。
「誕生日に、自分へのご褒美ですから」
「ご褒美?」
「巧さんへの未練とかじゃないですからね!自惚れないでくださいね!」
そんなの嘘だということくらい、陽菜の顔を見れば明け透けだった。ただ、この嘘には乗らなければならない。
「あーあ。なんてひどい彼女だ」
「えっ、えっと、あの」
「こんなに図太ければ、俺も安心だよ」
「そっちこそ、酷い彼氏ですね」
「なんだって?」
「私も巧さんが心配だったんです」
「は?」
「本当は寂しがり屋のくせに素直に言えないし、優しいのに意地悪して誤魔化そうとするし」
「おいこら」
「まだまだありますよ?」
「まったく、この女は」
「んむっ!?」
うるさい時は口を塞ぐ。巧の顔が間近にあるだけでうろたえて静かになる陽菜の唇を、本当に塞げればどれだけ幸せか、巧は数えきれないほど考えてきた。目と目で触れ合うだけでは足りなかったけれど、頬を桃色に染めて黙ってプレゼントを選びはじめた陽菜を、巧は目に焼きつけた。
外を見るといつの間にか、空が哀しい色に染まっていた。巧はまさかこの世の最後の思い出を、こんなところで過ごすことになるとはなと哀愁に浸った。でも、とても良い気分だった。
買い物を終えた後、夜のイベント、打ち上げ花火の場所取りをすると陽菜は駆け出す。しかし、目的を果たす前に遊園地のキャラクターの着ぐるみとじゃれ合っていた。
「巧さん、見てっ!可愛いです」
「そうかぁ?ただの不気味な」
「はいストップ!そういうこと言ったらダメ」
巧は、改めて自分がこんな愉快な人と波長が合うなんて、思いもしなかったと思い返す。死んでまで人に気を遣いたくないから、嫌な奴だと思われても別に構わなくて。そんな軽いノリで素のままでいたら、彼女はやんわりと受け入れていた。変態だのセクハラだのいろいろ言われても、楽しかった。
「花火、場所取るんじゃないの?」
「そうだ!急ぎましょう」
陽菜の背中を追いながらため息をつくが、裏腹に巧の顔は大分緩んでいた。
やがて花火が始まると、歓声とともに色とりどりの光が辺りを照らす。生まれて花開き散っていく、まるで人の命のようだった。
「ねぇ、巧さん」
「ん?」
隣を横目で覗き見ると、陽菜は前を向きながらつぶやいた。
「読み終えたら、いなくなっちゃうんですよね」
「そうだな」
「ずっと一緒にいられますようにってお願い、叶わないかなぁ」
陽菜は健気に笑った。巧は何も答えられずにいた。ギリギリの場所にいたから。ここで甘い誘いに乗ってしまえば、たちまち崩壊してしまうと思った。
「私たち、ずっとこの夢の中にいられたらいいですね」
「うん」
そう、これは夢だ。もとに戻るだけ。もともと巧はいなかったのだから。どうか別れた後、それから先、陽菜が前を向いて歩けますようにと、大輪の華に願った。
帰り道、ふたりは何も話さなかった。ただ、魔法がまだかけられているかのような余韻に浸って、とても穏やかな時間だった。無言が心地良かった。何もないけれど、ふたりの手と手は、ずっと見えるように重ねられていた。
「あっ、夜道フラフラしちゃった」
駅から家までの間、思い出した陽菜はあっと声を上げる。
「最初はもう少し早く帰るつもりだったんですよ。でも、楽しくて」
「特別に見逃してやろう」
「えっ?」
「誕生日は特別優遇」
「明日ですけど」
「俺がいいって言ったらいいの」
「ふふ。ありがとうございます」
ふたりきりで夜道を歩く。月の綺麗な夜だった。月明かりは優しく降り注ぐ。夜空に浮かぶ大きな月は、とても近くに見えた。でも実際は手が届かないほど遠い。それはまるでふたりのようだった。
「今夜は流星群ですね」
「なんで泣くの」
「泣いてませんよ」
「泣くなよ」
「私の目にはこんなに星が降っているのに、やっぱり本物じゃないとだめなのかな」
「叶わないこともある。どうしようもないことだって、あるんだよ」
巧は優しく言った。だから陽菜も言う。
「心配しないで。私は大丈夫です」
早起きできるし、部屋だって片付けられる。変な人にも騙されない。もちろん宿題も勉強も、巧が見ていると思えばできてしまう。
「私は強いんです」
「昨日言い逃したけど、あとひとつ」
「なんですか?」
「辛い時は素直に誰かに話すこと」
「えっ」
「俺、心配だなぁ」
「それ、巧さんもですよ」
「そうだね」
どうにもならなかったとしても、ひとりで抱え込まないで、誰かと痛みを分かち合ってほしい。
「私、離れたくないです」
「うん。俺も」
「ずっと一緒にいたいです」
「うん」
「ずっとずっと、側にいてほしいです」
「うん」
終わりの予感がした。泣きながら家に着いた途端、いつも流れに委ねる始まりを、初めて巧が口にした。
「本、読もうか」
「はい」
読んでしまえば、物語は終わってしまう。でも陽菜にはもう、駄々をこねる力もなかった。泣き切って、思いを叫んで、心は怖いほど平静だった。
ベッドに隣同士で並ぶのも最後。初めはすごく緊張して、手に汗をかいたのを鮮明に覚えている。いつかと思っていた瞬間を迎えている不思議に、胸の鼓動が高まった。深呼吸をして、最後の一ページを読む。惜しむように、焦がれるように、めくれば愛が伝わるように。
「おめでとう」
「え?」
「誕生日」
時計を見ると、いつのまにか日付が変わっていた。巧は陽菜の瞳を覗き込んで微笑むと、前髪にそっとキスを落とした。未来をくれた人と、未来を奪った人。残酷にも巧の前で、陽菜はひとつ年を取る。
それでも好きすぎて、思いが涙のようにあふれてくる。でも、色も形もないものだから、言葉にしないと幻のまま。陽菜は巧へ、最後に愛を伝えたかった。
「私、巧さんのこと」
「ダメ」
「え?」
「それ以上言わないで」
最後だとわかっているのに、巧は拒んだ。巧だって、抱きしめてキスをして愛を伝えたかった。
「戻れなくなる。ずっと一緒にいたくなっちゃうから」
現実と幻の中で、ふたりはたしかに恋をした。それは思ったよりも幸福なカタストロフィー。静謐なひとときを見つめ合った。
「目が覚めたら、すべてが夢でありますように」
「どうして?」
毎晩陽菜が眠りに就く淵で、巧は柔らかな愛を落とした。ほんの少しでいいから、触れることができたらどんなに幸せだろうと、そんな夢を見て。
「巧さん?」
カーテンの隙間から差し込む月明かりが青白く辺りを照らす。すると意図も簡単に巧の身体は消え始めた。
「や、いやです!」
「こら」
「いやっ!」
「おい」
「やだ、やだっ!」
「陽菜」
巧は初めて名前を呼んだ。陽菜はピクリと肩を奮わせて、涙の瞳を見開く。惜しくなるから。それは最初で最後だった。
「俺、心残りができた」
「心残り?」
「ずっと側にいられないこと」
「巧さん」
「いつか、自分以外の誰かが君を守ること」
「私も嫌ですっ」
「綺麗になっていく君を、見られないこと」
陽菜から落ちた大粒の雫を掬おうと、伸ばした指先が彼女の頬をかすめる。あふれ落ちる数々の涙はそのまま、拭われることもなく服を湿らせていった。
「じゃあ、ここにいてくださいよ」
「それはできない」
「なんで」
「なぜなら君に、未来があるから」
歪む視界が煩わしい。それでも涙は止まらない。巧は陽菜の頬を両手で優しく包み込んだ。そうして額を寄せて、見つめ合う。
「君と過ごした時間は、俺にとって奇跡だった」
花火のようにキラキラと消えていく巧から、陽菜は最後の愛を受ける。切なくて、苦しくて、幸せだった。巧が消えた後、悔しくて、悲しくて、本を抱きしめて泣いた。
(さよなら、巧さん。ずっとずっと、大好きです)