意地悪な先生と過ごす夏休み
眠る前に少しずつ、ページを、あるいはいくつかのセンテンスを読み進める。それは降り積もった白銀をグッと踏みしめる時のようで、一歩一歩に込めるのは期待とわずかな不安。

この世界は夢幻的なのに彼らが孤独だから、多分、誰にでも心当たりがあるはず。読むことをやむにやまれぬ物語は、遠いようで近く、近いようで遠い。陽菜にはそんな憧れがあった。

あぁ、本がなければ、夜、星空を見上げればいい。ぬくもりの日常は近くにあるのに、ふとひとり夜空を見上げた時に感じる寂しさに似ている。美しく神秘的なのに、足がすくむような吸い込まれそうな恐怖と孤独感。漠然と心理を揺さぶられているようで、きっと涙をこらえなければならないだろう。

「なんかお前、ボーっとしてるね」
「え、そうですか?すみません」
「明日は朝からバイトだろ。無理しないで早く寝ろ」
「無理をしているわけではなくて」

黙りこくる陽菜に巧は首を傾げる。そんな巧を見つめたまま、焦点はここではないどこかを捉えて心を馳せた。

初めて読み始めた頃は、巧に似ていると思った物語。けれど、腰かけるベッドの端に並んだふたりは、触れるか触れないかのとても近くにいてもなお、手を伸ばせば届くというわけではない、はるか遠いその存在。陽菜が今、僭越ながらも重ねてみるのは物語と自分たち。

ふたりで過ごした先には、なにがあるのだろう。どれだけ深く関係性を築けているのだろう。重ねてしまうから、欲が出てわからなくなった。

「うーん。わからない」

どうしたら、もっと彼に近づくことができるのか。ただただ、罪と恋の垣根の高さを思い知り、重いため息をついた。

「なにがわからないんだ?」
「あっ、あ、えっと」

出口の見えない密室にトリップしていたはずが、現実の世界まで声がもれてしまい、はっとした。差し迫って、手にしていた本のページを意味もなくパラパラとめくり、いったりきたりさせる。もごもごと口ごもる陽菜の手もとを覗こうとしてくる巧の、純粋な至近距離に慌てふためく下心が恥ずかしい。

「なにを思いつめていたんだ?いつもみたいに言えばいいのに」

そう、いつも。物語を読み進める道中で生まれた陽菜のインプレッションに、多くの返事をくれる巧との対話が思慮深いものとなるのは、いつもの流れ。夏の夜の蒸し暑さを忘れ、二酸化炭素を吐くのと同じくらいに自然に、考察や憶測を吐き夢中で語らう。進捗状況は悪いけれど、とても有意義な時間だった。

しかし今のばかりは簡単につぶやけない例外。どうにか取り繕おうと、わからないの代わりになる、わからないを挿絵に見つけ指差した。

「これ、バオバブって、本当にあるものなんですか?」
「バオバブの木、知らない?」

たしかに知らない陽菜は大袈裟に頷く。オーバーリアクションを怪しんでいそうな巧の眼に焦りつつも、彼の肯定に好奇心のまま食いついた。

「どんな木なんだろう!」

それは空想から現実へ立ち込めるもやを抜ける瞬間のよう。その先でうららかな感動の光を浴びたいと思うと、軽薄でも当初の取り繕う予定なんてもう末梢的で、陽菜の関心は物語の中へと立ち戻った。

「古くから食料や薬として、生活に大切な樹木だったらしい」
「大きいんですよね?山に行けば見られますか?」
「それは無理だな。多くはアフリカとかの熱帯地域」
「そっか、残念です」
「まさか、見に行くつもりだったのか?」

がっかりして髪を前に垂らした陽菜に、巧は驚いた声で言う。隣に座る巧を見上げ、陽菜は唇を尖らせた。

「夏休みだし、小旅行みたいで楽しそうかなって」
「まぁ、この絵のスケールを求めないのなら、国内では植物園だろうね」
「え、求めてます」
「よく考えろ。そもそも環境が違うでしょ」

納得と不満と落胆に、眉間にしわを寄せ口を一文字に結ぶ。陽菜の難しい顔を鼻で笑い少し唸った巧は、本の挿絵を眺めながら、雰囲気を切り替えるように組んでいた足を組み直した。

「俺も実際に見たいとは思うけどね。大きさもさることながら、奇妙な形もなんかミステリーだよな」
「奇妙な形って?」
「幹は太いけど、枝は細くて短いから根みたいなんだ。アップサイドダウンツリーって呼ばれることもある」
「逆さまの木、ですか」
「うん。悪魔とか神とかが、根を引き抜いて地面に逆さまに突き刺したって話は有名」
「ポップな発音なのに深いですね!……でも」

陽菜の言わんとするところに巧は首を傾げた。

「でも、この絵は、星を守っているみたいですね」

ひとつの小さな星にはびこる、大きな大きな木たち。すべてを飲み込まんばかりの脅威、恐怖なのかもしれないけれど。

「お前、おもしろい発想するんだな。本文は悪印象な表現ばかりだろ?」

自分の感じた思いを告げた陽菜に巧は目を丸くした。かと思えば、お腹を抱え笑いを噛み殺す。陽菜は恥ずかしくなり、手にしていた本で顔半分を覆い、亀のように首を肩に埋めて背を向ける。

「変ですよね、すみません」
「いやいや、俺がごめん。捉え方はひとつじゃないんだから、謝ることではないよ」

隠れる陽菜を追いかけ、切り捨てずに理由を問う巧に長谷川先生を垣間見る。今、一度読んだだけの陽菜とは違い、内容はもう記憶済みなのだろう。巧はすらすらと本文をまとめて前置きを作った。

「バオバブを放っておくと取り返しがつかなくなる。それは根が星を突き破りバラバラになってしまうからだよね」

陽菜が頷くと、巧は続けて本論に入る。

「だから、この絵は最悪の事態の忠告、教訓だとあるよ。どうして守っているみたいにたどり着いたの?」

やわらかさと鋭さが入り交じった眼差しに迫られ、思わず喉を動かした。陽菜がバオバブの恐ろしさに切迫する主人公に抱いた所感は、ヒューマニティー。

「土の中の見えない悪い種が芽を出したら、摘み取ってすてなければ。という決まりは物語の世界から、人間社会に突き放された感じがしませんか?」

巧は顎に手を当てながら少し考えて言った。

「急に倫理じみているってこと?」
「あぁ、そうかもしれません。それに教訓なら、私たちと切り離せない、なにかを例えたのかなって」
「なにかって」
「例えば人の心とか。それは誰もが持つ、守りたい大切なものだから」
「なるほど」
「いつも平和だとは限らない。守る方法は人それぞれ違うし、外聞が良いことだけではないでしょ?」
「うん」
「抑制できなければ、手に負えない取り返しのつかない事態になることもある」
「ふぅん。それが君の解釈か」

組んだ足に頬杖をついて打った巧の相槌は、淡々としているけれど、否定してはいないよう。陽菜は倫理的に沸いた後ろめたい気持ちを殺して、結論に勢いをつけた。

「脅威の本当は、始めはただなにかを守りたかったのかもしれない。と、思いました」

言い切って一呼吸つき、巧を見る。希薄だった返事が途切れ、不安を抱き陽菜が彼の名前を呼ぶと、微妙に口角を上げたようだった。

巧は夜な夜な本の世界に浸りながら、自分なりに考えて解釈していく陽菜のポテンシャルの高さに感心した。何気ない質問や率直な意見は、教師として飽きないし、陽菜の個人的見解に意表を突かれるのも嫌いではなかった。

「是非とも君には、そのままでいてほしいよ」
「そのままって、どういうことですか?」
「清濁を併せ呑みながら、たくましく成長していってくれ」
「せいだく、ん?」

よくわからなくて顔をへしゃげる陽菜に、苦笑いしながら瞼を伏せる。

「いずれわかるよ」
「いずれって、いつですか?」
「うーん。ゆくゆく」
「大人になれば、わかるってことですか?」
「さぁね。その前にわかるかもしれないし、もっと後かもしれないし」
「なんで曖昧なんですか?教えてください」
「焦るなよ」
「だって、もしわからなかったら」

永遠に、わからない。理解していても言えない心の内にしめつけられて、それが顔にも表れたかもしれない最中、巧は陽菜の唇の前で人差し指を立てた。時を止める魔法のように、巧のたった一本の指先にすべてを制止させられる。思わず凝視した巧の唇は、やがて呪文を唱えた。

「わからなかったら、また読めばいい」
「それでも、わからなかったら?」

陽菜は乞うように問いかけたのに、返ってきたのはリフレイン。何度も、何度でも、巧はそう唱えるのだろう。

「まるで無限ループです」

陽菜は静かにため息をつく。閉じた本の表紙に指先で円を描いて、そこから解き放たれた日に、未来の自分が何を思うか考えた。途方を失う陽菜を見て、巧は肩を揺らしながら、悪戯な顔で締めくくる。

「わかればまた、読みたくなる」

えっと驚き眼を見開くと、巧はただ柔らかに笑った。


しんみりした夜の一時から、陽が昇ると一転。着替えを済ませて店内へ出た陽菜は、荒い呼吸を整えながら、一直線に巧めがけてズカズカと歩いた。汗ばんだ額から流れる一筋の汗は、蒸気する頬を伝い落ちる前に手の甲で拭う。

「もっと早く起こしてほしかったです!寝癖を直す時間もありませんでした」
「俺はお前の目覚まし時計じゃない」
「でも、いつも早めに起こしてくれてるじゃないですか!」
「見かねて、仕方なく、起こしてやってるんだ」
「だったら早番の日こそ、しっかりしてくださいよ」
「自ら起きるつもりはないのか?」

巧は勘弁してくれとばかりに、わざとらしく肩を落として見せたが陽菜は顧みない。最近、スマホのアラームに変わる優秀な目覚ましアイテムを手に入れた陽菜は起床に関して堕落していた。スヌーズ機能はもはや無意味。起こしてもらえるだろうと油断して、堂々と寝坊しているものだから巧も腹が立つ。

「何回も起こしてるのに、ヒトデみたいな顔して呑気に眠りやがって。いい根性してるよ」
「ヒトデみたいな顔?」

陽菜には所以もどんな顔かもわからない。首を傾げ寝癖を揺らす陽菜に、巧はため息をつく。それから両手でその大きさを作った。

「このくらいのやつ。お前の部屋にある、オレンジ色の変なクッション」
「えっ、あれをヒトデ?」
「ヒトデじゃないの?」
「星ですよ!どう見ても星型のかわいいクッション」
「はぁ?星なら普通、黄色だろ」
「それはただの固定概念かと。巧さん、ダサいです」
「なんだと」
「私のお気に入りのクッションが、ヒトデだと思われていたなんてショックです!」

陽菜は大きく目を見開き、顔の筋肉すべてを引きつらせて巧を憐れんだ。巧のかつてないこの屈辱感は、筆舌に尽くしがたい。

「このクソガキ。さっさと仕事してこい」

動く旅にピョンピョン跳ねる芸術的な寝癖が、巧はいい加減うっとうしくなり、陳列棚に並ぶ適当な商品を眺めながら左手で追い払う。しかし陽菜はわざわざ視界に入り込んで待ったをかけた。

「今日は一時までですからね、ちゃんと待っててくださいね」
「わかってるよ」
「その後も。買い物に付き合う約束、忘れないでくださいね」
「はいはい。そんな念を押さなくても、お前の周りからは離れられないっつの」
「では、バイトしてきます!」

巧は軽快なステップでレジへ向かう陽菜を見送り苦笑いする。一カ所だけ跳ねた後ろ髪を感慨深く見届けた。

「寝癖のまま買い物とか、そんな彼女は初めてだな」

身なりに気を遣うようになったかと思えば、根本的なところは相変わらず抜けていてまだまだ手がかかるけれど。恋人のベタなやり取りのような会話に、巧は我ながら面白い設定を組んだと自賛した。


そうしてアルバイト帰り、ふたりは駅構内のショッピングモールへ訪れた。

「どっちがいいと思います?」
「どっちも同じだろ」
「よく見てください。ここの柄が微妙に違います」
「えー、あ。ほんとね」

目的は下駄の新調。時節柄どこのショップにも浴衣と一緒に置いてあるので、あちらこちらと見て歩いた。予算の都合上、あまり高価な物は手にできない。かといって、デザイン性を軽視することもできないと陽菜は悩む。

「もう、どれでもよくね?全部一緒じゃん」

下駄の並ぶ棚を睨む陽菜をよそに、巧は腕を組んで仁王立つ。その顔は偉そうな態度とは違って、なにか恐れを感じているようだ。陽菜は唇を尖らせ、鼻息を吹いた。

「巧さん、そういう男の人ってモテないんですよ」
「お前な。下駄探し回って二時間だぞ?さすがに疲れるだろ」
「幽霊も疲れるんですか?」
「精神的に。俺の心の疲労が」

巧の恐れは、終焉のわからないウインドウショッピング。たしかに興味のない買い物に二時間も連れ回されたらグロッキーかもしれないと、陽菜は仕方なく手近の二足から選ぶことにする。微妙に違う柄を目を凝らして見比べていると、巧が隣の棚を指差しながら陽菜を呼び寄せた。

「これ、お前の浴衣と同じ柄」
「本当だ!色合いも良さそうです」
「よし、決まったな。決定だな」

陽菜は昨日浴衣を広げながら、母からもらった物だと見せた柄を覚えてくれていたことが嬉しかった。笑顔で頷くと、巧は安堵の表情を浮かべ笑みをこぼす。その放たれる解放感に、陽菜は思わず顔をしかめた。

「安心しすぎじゃないですか?」
「高校生と二十七歳のメンタルを一緒にしないでくれ」
「あはは。ならフィジカルもですね」
「いや、そっちは自信ある」
「そうなんですか?」

スポーツが得意なのだろうかと、新たな一面に目を見張る。ところが、巧の伏し目とニヤリと上げた口角が、そうではないことを意味していた。陽菜は一歩後ずさり、生理的に染まる頬を両手で覆う。

「な、なんか違う!違うこと考えてる」
「察しがいいな。言ってみろよ」
「こんなところで、言えるわけないじゃないですか!」
「へぇ。こんなところじゃなければ言えるんだ?」
「違っ」
「さすが彼女。お楽しみだなんて一枚上手だな」
「セクハラ!変態!」

こんな時にばっかり、全面的に彼女扱いする巧は意地悪だ。ケラケラと悪魔のように笑う巧に、いくら非難の言葉を浴びせても、なんら動じないから悔しい。赤くなる頬の内側で、ギリッと歯ぎしりした時、パタパタと足早に近づいてきた人の気配から、切迫した声がかけられた。

「お客様、どうかなさいましたか!?」
「え?」
「大丈夫ですか?」

声の主は、スタッフと書かれた社員証を首から下げた女性。陽菜はなにを心配されているのかわからず思考停止していると、巧が他人事のようにつぶやいた。

「セクハラだのなんだの騒いでたら、普通こうなるよな」
「えっ、だって巧さんが!」
「俺のことが見えるのは、お前だけなんだぞ」
「あ」
「端からするとお前は、ひとりで喋ってる変な奴」

人差し指を裏返して指差し、状況を客観的に説明する巧は、店内を冷やすエアコンの風のよう。クールダウンし冷静になった陽菜は、速やかに下駄を購入して退場した。


アスファルトから照り返す灼熱を、立ちはだかるビル群が蓋をする。温められた餅のように頬を膨らませ怒る陽菜と、風鈴の音のように涼しげな笑い声をあげる巧との帰り道。

こらえるように肩を揺らしながら一歩先を歩く巧に苛立ち、陽菜は彼の背中に打撃でも与えられればと、力任せにショッピングバッグを振り回した。無論、空振りして袋の中で下駄と下駄のぶつかる音がした時、立ち止まり身をひるがえした巧が行く先を塞ぐ。陽菜はギクリとして身を固め、荷物を抱き抱え直立した。

「ガキだな。いつまで拗ねてんだよ」
「拗ねてないです。怒ってるんです!」

ふんっと顔を背けた先の、通行人の目を引こうと光るショーウィンドーに息をのんだ。至極当然。けれど虚しい。そこに写る陽菜は、ひとりだった。

「どうした、買い忘れか?」
「いえ、なんでもないです」

空返事を返しながら、陽菜は巧を探す。しかしこのガラスの世界に、陽菜の隣の彼はいない。胸の奥が苦しくて、息ができなくなりそうだ。目尻に涙が滲んだかもしれない時、ガラスの向こうに捕われて目が離せなくなった陽菜の耳もとで、妖しい囁きが糸を切る。

「なるほど。さすが彼女だね。今度は水着でお楽しみ?」
「え、みずぎ?」
「最近の高校生は大胆で、先生困っちゃうなぁ」
「えっ!?」

ひとり脳内が二転三転してやっと捉えた世界の背景には、緑の映える街路樹が穢れなく生きる。そこから見つけた巧は、陽菜の心情など知る由もなく、ガラスの中を眺めて微笑んだ。

「黒のビキニはテッパンだね」

微笑むショーウィンドーの中にあったのは、華やかにディスプレイされた、夏の海を楽しむためのアイテム。陽菜は思わず叫びそうになった決まり文句をぐっとこらえ、何事もなかったかのように咳払いをしてから言った。

「寝癖が目立っていたから、気になっただけです」
「今さらかよ。平気で寝癖を晒す彼女、俺史上初だぞ」

陽菜史上初の彼氏は、経験豊富な上級者。悲しくなりつつも、彼女と肯定される度嬉しい初心者な陽菜は素直に反応してしまう。カッと赤らめた陽菜の頬に、巧は指先から滑り込んでそっと手のひらで包んだ。

「わっ!?」
「ね、これどっち?寝癖を指摘されて恥ずかしいのか、単純に彼女って言われて嬉しいのか」
「そんなのもちろんっ」
「ん?」
「いや、えっと」

触れた感覚を感じることができなくても、目と目で触れるのだと豪語したことのある陽菜は、敏感であること極まりない。巧の大きな手では負えないほどの赤面をどう始末しようか考える。目尻を撫でるように這う指先を片隅に捉え、自覚するほど眉を八の字にして困惑した。

「で、どっちかな?」

クスクスと笑い面白がる巧に、今日何度目かの悪魔を見る。こんなところでのまれて卒倒するわけにはいかず、苦し紛れに思いっきり顔を左右に振り邪気を払う。

「どっちもハズレ!暑いだけです」

陽菜は羞恥に満ちた情けない顔を隠すこともせず、巧の身体を真っ向から突っ切った。後方から騒ぐ声が聞こえるけれど、振り向かずに黙々と家宅の一途をたどる。こんな変態教師のどこが怖いのかと、陽菜はアルバイト中に佐野とした会話を思い出した。


ーー「相沢さん、怪我の具合はどう?」
「もうほとんど治ってます。包帯なので大袈裟に見えるだけですよ」
「よかった。相沢さんが元気だったら、きっと長谷川先生も安心するよ」
「はい」

怪我に関しては、傷よりも黒ずんだ打ち身が見るに堪えない。他人が見ても気分のいいものではないだろうと隠してはいるが、巧は包帯を巻き直す度に躊躇いもなく覗き込んでくる。美人な看護師に会いたい発言は、八割は陽菜の心配あってのことだと思った。

店内の雑誌コーナーをうろついて暇を持て余す巧の後ろ姿を、レジカウンターから眺めながら、ふと昨晩垣間見た教師の顔の確信に迫りたくなった。というか、好きな人の知らないところを、もっと知りたいという乙女心もある。

「あの、先輩は長谷川先生の授業を受けたことがあるんですよね?」
「うん。僕が一年の時に国語総合で、三年では現代文の担当になったよ」
「先生って、いつもどんな感じなんですか?」
「どういうこと?もしかして相沢さん……」

突然の質問に佐野は訝しげな顔をする。先生に憧れる生徒のように見えてしまったのだろうか。実際そうなってしまったのだけれど。

「深い意味はないんです!私、接点がまったくなかったのに、助けてもらったから。どんな先生なんだろうって」
「そっか。そういうことか」
「はい。クールとか、授業が楽しいとか、人づてにそのくらいしか知らなくて」

クールだと噂の巧は意外とよく話す。本人も意識しているようなので、仕事のオンオフを器用に切り替える人かとも思ったが、授業が楽しいとなると少しの矛盾が生まれる。

「そうだな、楽しいっていうのはおそらく、授業に飽きないからだと思うよ」
「そうなんですか?」
「ダレる隙がないんだよね。僕らに親しみのある例えで、難しい言葉や表現を教えてくれるから、理解しやすいし」
「へぇ!」
「授業内容から離れた質問でも、けっこう真面目に応えてくれるんだよ」

どんな意見でも無下にしない。向き合ってくれるから夢中になれる。そんな巧を陽菜も知っている。にっこり笑った佐野に、心当たりのある陽菜も、にっこり笑い返した。けれど佐野はすぐに苦笑いをして言う。

「でも普段はちょっと怖くて、迂闊に話しかけられないんだよな」
「え、長谷川先生が怖い?」
「雰囲気に息をのむっていうか。迫力あるんだよね。あんまり笑わないからな?」

たしかに初めて会った時は、そんな雰囲気があったかもしれない。しかし、ヘラヘラ笑って親しみやすい巧が板についてしまった陽菜には、なかなか実感の湧かない彼であることに違いはなかった。先生と生徒だったら決して交わることなく、違う世界を平行線で生きていたのだろう。

「ところで相沢さん、今日もかわいい寝癖だね。見ると元気が出るよ」
「あはは。ありがとうございます」ーー


「こら待て。寝癖彼女。お前の後ろを歩くと、そのうざった寝癖、引っ張りたい衝動に駆られる」

先を行く陽菜を追い抜いて、どうしても一歩分前へ出る巧を睨みつける。

「ひどい!佐野先輩は元気が出るって言ったのに」
「そりゃ、佐野は優しさの塊だろうが。特にお前には」
「巧さんは意地悪の塊ですね」
「そうね。特にお前には」

陽菜はしばらく巧を睨みつけながら歩いていたが、ふと立ち止まり数歩離れたところで声を張った。

「別に巧さんが楽しいなら、私はいいですよ」

ひとり、周りからどう見えていようと、陽菜の目の前には巧がいる。楽しそうな彼を見ると、陽菜は嬉しい。それが自分にしかできないことなら、なおさら。そんな思いで陽菜は笑顔を贈ったのだが、くるりと振り向いた巧は心底心配そうな眼差しを向けた。

「ドMか?将来のためにも、優しさの塊と意地悪の塊、どっちに利があるかよーく考えておくんだぞ」
「意地悪の塊」
「即答かよ。照れるじゃないか」
「か、彼女なので」
「ふむ。自覚を持って尽力する、その姿勢は申し分ない」

ふざけた巧の余裕を、いつか奪えたら最高だと思った。あんまり笑わないクールな長谷川先生は手強そうだけれど、幽霊で変態でセクハラな巧さんなら隙があるかもしれないと陽菜は思う。

陽菜は気持ちをさらけだすことで少しずつ近づけるような気がした。今はまだ、それしかできない。だから今夜も、ページを開くのだ。
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