ハルシャギク 禁じられた遊び
大人はうそをつかない
おじいちゃんは1983年、私が中3、おばあちゃんは1985年、高校2年のときに亡くなった。
おばあちゃんは最後の最後まで、「あんたはぼーっとしてるから、もっと気をつけて、二度と誘拐なんかされないように気を付けっせ」と心配していた。
あくまであの日の出来事を、「誘拐未遂」として処理したかったらしい。
もしおばあちゃんがおじいちゃんがより先に亡くなっていたら、私は真相を早く知ることができたろうか?
両親も、私の気持ちよりもおばあちゃんの遺志を尊重したようで、やはり「誘拐未遂」のていで話すし、そもそも事情があまりよく分かっていなかった――というよりも、分かっていても、おばあちゃんフィルターをくぐった、悪意と思い込みに満ちた話だけが情報ソースだから、無理もない。
◇◇◇
おばあちゃんの四十九日を終え、少し落ち着いた頃、私は何となく両親に尋ねた。
「ねえ、お父さん。一番古い記憶って何?」
「どうした、突然」
「ん…家庭科の宿題。今、保育とか幼児教育の分野やってるから」
「お、そうか。そうだな――3歳か4歳のときか?正月に獅子舞に頭をかまれて大泣きした覚えがある」
「何それ?」
「そういう習慣があるんだよ。獅子舞に頭をかんでもらうと、病気しないって言われたんだ」
「変なのお…お母さんは?」
「私は田舎に疎開したときかなあ。5歳?ぐらいだった。おやつに大きなお芋もらって幸せだったんだ」
「時代だねえ…」
母は1939年生まれだ。
だから小さい頃の記憶は、ほぼ戦争が絡むものだという。
父はもう少し年上の昭和ヒトケタ生まれなので、本当に小さい頃というと、ちょっとだけ心象風景が変わるようだ。
「あと戦争っていえば、おじいちゃんが戦争から帰ってきたとき、お母さんはその人が自分のお父さんだって思わなくて、『あのおじさん、いつまでうちにいるの?』って言ったらしいよ」
「うわ、おじいちゃんカワイソー」
当時、母方の祖父母も片山市内にいたけれど、父と母が結構年が離れていたので、母方の祖父母の方はまだ若くて健在だったはず。時々しか会わないこともあり、2人とも優しくて気前がよかった。
私は「ふむふむ」と、もっともらしい顔でメモを取って、その上から「大人はウソつかない」って殴り書きした。おばあちゃんが私を黙らせるために言った言葉だ。
なるほど。大人のうそは「方便」だからうそではない。
そして、子供の頃の話をとっさに聞かれると、盛ることはあってもうそはつけない。
ただし、後々補完されたり改竄されたりしていることもあるだろう――私の5歳の記憶みたいに。
「要するに、5歳の頃なら余裕で覚えてるってことだよね?」
「そうだね、それくらいなら」
「うんうん」
「ありがと。いいレポート書けそうだよ」
私は大人じゃなくて女子高生なので、平気でうそをつく。
方便なんて言ってごまかさない、ただのうそだ。
ホントはそんな宿題レポート、出されてないよ。
第一その頃の『家庭一般』の授業では被服分野やってて、パジャマを縫っていたし。
でも、そんなうそをついても別に誰も困らないでしょって思っていたから、特に罪悪感もなかった。
私を安い工作でだまそうとするからいけないのよ。
ユウちゃんは確かにいた。
私があの5歳のときのことを聞かれたら、両親のぼんやりした話よりもずっと鮮明に再現できるという自信があった。
何せほら、まだ若いし。
◇◇◇
1985年、夏。
チェックの服を着て前髪を伸ばしたお兄さんたちのグループが、歌ったり、映画に出たりと大人気だったけれど、私はさして興味がなかった。
高校生だし、みんなボチボチ彼氏など作り始めていたけれど、私は誰ともうまくいかなかった。
友達の紹介とかで、3人くらいの人とデートしたけど、みんなに「退屈」って言われて振られた。
あの頃、19歳?になったユウちゃんは、どこでどうしていたのだろう。
誕生日の日記にこんなことを書いた。
『ユウちゃん、私、17歳になったよ。
身長だって157センチあるよ。
科目は英語が得意で、結構勉強は頑張ってる。
お弁当だって、時々は自分で詰めて持っていくんだ。
ユウちゃんが期待していたような美人になれたかは分かんないけど、
みんなからは、割とかわいいって言われるよ。
でも、男の子はみんな、私の話は退屈だって言うんだ。
お墓に咲いている花の名前に興味がある若い男の子なんて、いないみたい。
19歳のユウちゃんも、退屈だって言うかな?
それとも、あのときみたいに笑って聞いてくれるかな。
もう一度、一目でいいから会いたいな…』