ハルシャギク 禁じられた遊び
あとがき
『ハルシャギク 禁じられた遊び』へのご来訪、ありがとうございます。
この話は一部だけですが、実話です。
さすがに「幼馴染が後にアイドルとして~」というのは完全に創作ですが、実際、中学時代「アイドルになる」ために転校した友達はいました。
「家族で食事中スカウトされて」ということになっていましたが、某有名歌手のもとで結構な謝礼を払ってレッスンをしていたということもぶっちゃけていたので、ほんの少しだけ“裏側”的なものを垣間見た思いでした。
明るい性格で華のある容姿だったし、歌も上手だったのですが、(売り出し方に難があったせいか)今その子の名前で検索すると、ネタ的というかキワモノ的に扱っている個人ブログが見つかるだけです。もし彼女がそれを目にしたとき、「私を覚えてくれている人がいる!」とポジティブに捉えているといいな…なんて、要らぬ心配をしております(彼女の性格上、その可能性が高いと思うのですが)。
◇◇◇
それはさておき。
実話ベースとはいえ、決定的に違う部分があります。
本当の「ユウちゃん」が女の子だったことです。
2歳上で、私には優しかったけれど、乱暴でうそつきだということで、あまり好かれていませんでした。
色白の肌にくっきりした顔立ちで、ひょっとしたら将来美人になるタイプではという顔でしたが、子供からは「くど過ぎて気持ち悪い」と言われ、顔を見ながら「オエーッ」と吐くマネをするような、えげつない嫌がらせをされたり、「ユウ菌」と呼ばれたり、ストレートでクリティカルな、ものすごい昭和っぽいいじめられ方をしていました。しかし本人が雄々しく反撃するので、「いじめ」が成立していませんでした。
現実の私は、「遊ぶな」と言われ、祖父母や両親の意見を入れたヘタレでしたが、ある日突然、引っ越してしまったのも作中のとおりです。今どこでどうしているのかは当然分かりません。
自分も人の親になってみて、分かったことといえば、子供の友達の存在を否定し、「あんな子と遊んじゃ駄目」というのは、結構勇気が要るということです。
大人だからといって人を見る目があるわけではなく、ヤバいことに巻き込まれそうなリスクが高いか低いかの判断が子供よりはできるだけですから、その一言で子供の信頼を失ってもいたし方ありません。
親としては、子供自身が善悪の判断ができる、仲のいい子相手でも間違っていることには「ノー」と言える――あたりの力を鍛える手助けくらいしかないでしょう。あとは、それが原因でいじめられた、ひとりぼっちになってしまったというときのケアだけです。正直(悪事を注意する、行動を改めるという意味で)よそんちの子供の面倒までは見切れません。
私は人格者でも篤志家でもないので、「子供は社会で育てるとか寝言を言う前に、社会に出しても問題ない子供を育てろ」と本音の部分で思っています。
問題のある家庭で問題のある子供になってしまったなら自分の手には負えないし、一見問題なさそうな家庭でそうなってしまったなら、なおのことです。
私の記憶の中のリアルユウちゃんは、「万引きは中学生になってから」ときょうだいに教えられたと言い、墓場の菓子は、私には何も言わずちょいちょい悪びれずにつまみ食いしていました。それを見て「ユウちゃんと遊ぶのは楽しいけど、これはちょっと…」と幼心に感じたのが、親たちの意見を入れる決め手となったんだと思います。よかったのか、悪かったのか。
アオイちゃんとその仲間たちには、具体的なモデルは「いるような、いないような」です。私は昔からこの手の集団に絡まれ、いじられることが多かったので、「そういう人たち」クラスタは、いつの時代も存在しました。
アオイちゃん的な子は隣に住んでいたのですが、『さよなら絶望先生』の木津千里ちゃんみたいに正義感が強くて融通が利かないだけで、今思うと決して悪い子ではありませんでした(むちゃくちゃ苦手でしたが)。次はああいうタイプの子を主人公にしたお話も書いてみたいと思います。
ユウちゃんに話しかけられても無視し続け、しまいに話しかけてこなくなったとき、私が転んでひざを擦りむいたら、水場まで連れていってくれて、傷口を洗うように促したとか、そんないい思い出が頭に浮かんでしまったりして、少しだけ「ちくっ」としたのを覚えています。
ジョン・アーヴィングの『ピギー・スニードを救う話』じゃありませんが、ふとした拍子にそのときの気持ちを思い出して、何か美談っぽくしたくなった――のが、本作を書いた動機です。
また、近所の墓地で色鮮やかな、しかし「雑草」と言われそうな花々が百花繚乱状態で咲き乱れているのを見て(周囲の園芸作物の飛び種とかでしょうが)、そのワイルドで雑多な美しさにうたれました。最初に本作を書いたときの季節柄、特に目立っていたのがハルシャギクでした。もともとこれは墓地によく咲いているイメージがあります。