ハルシャギク 禁じられた遊び
温かなくちびる
「あ…雨?」
顔を空に向けていたユウちゃんは、それに私より先に気づいた。
「あ、ほんとだ」
私も手のひらを上に向けて、水滴を確認した。
梅雨時だから、こういうことは間々ある。
むしろとりあえず雨が降る前に少し遊べただけでもラッキーだった。
大人になった今の頭で考えると、子供の足でせいぜい5分程度なのだから、降りが強くなる前に家に帰ればいいだけだったのだが、ユウちゃんは、枝ぶりのいい、広い葉がたっぷりとついた大きな(子供目線で)木の下に、私の手を引っ張っていった。
「ここでアマヤドリだ」
「アマヤドリ?」
「雨が止むまで待ってれば、また遊べる」
こうして思い出すと、ユウちゃんは結構聡明で――そして小賢しい子供だった。
多分、人目を気にしないで友達付き合いしているような子だったら、同性だろうが異性だろうが、「急いで家に帰ろう」と言って、送り届けてくれたり、そのまま家で遊んだりできたろう。
でも、その子供が自分だったら「そういう展開」にならないだろうということを、経験上かもしれないが知っていた。
私を今家に帰したら、もう遊べなくなるかもしれない――などと、本能的に思っていたのかもしれない。
愛宕山公園で偶然会えたら一緒に遊び、大抵はこの墓地に来て、他愛もないことをしゃべっていた。
食べられそうなお菓子があれば、それを分けっこする。
自分はむき出しのものを平気で口に入れるが、私には絶対袋入りのものしかよこさないし、せんべいなどの干菓子でないときは(多分、そういう基準だったと思う…)、においをかいであやしいと思ったら私には渡さなかった。
◇◇◇
そういえば、私が(十分過ぎるほど)大人になってから、『ケーキを等分できない虞犯少年』という感じのタイトルの本がベストセラーになったのを見て、ユウちゃんと初めて会ったときのことを真っ先に思い出した。
ユウちゃんはまだ小2になったばかりで、割り算どころか掛け算九九もまだ教わっていなかったと思うけれど、私のシャベルを使い、ケーキに十字に線を入れて、その4分の1に当たる部分を持ち上げて食べていた。
自分の頭で考えて、等分の概念が分かっていたのか、誰かのしぐさをまねしたのかまでは分からないが、彼はケーキを4等分する方法を知っていたのだ。
閑話休題。
私も不思議なことに、「おうちに帰らなきゃ」という選択肢がなかった。ユウちゃんともう少しいられるなら、アマヤドリってスバラシイ、なんて思っていたはず。
もちろん、木の下でも葉の間から雨か降り込むし、全く無傷というわけではないけれど、結構雨足が強まってきていたので、しのげている実感はあった。
しかし、さすがにだんだん空が暗くなってくると、不安な気持ちが強くなってきた。
そのときはあまり考えていなかったが、雨降りの中、いつまでも帰ってこない孫を、祖父母は心配していたろう。
「おうち…帰れるかな」
「大丈夫だよ。雨が弱くなったら送ってやる。家までは無理だけど、近くまでな」
「うん…」
「ほら、そんな顔すんなって」
そう言いながら、ユウちゃんは私の左ほほにキスした。
「え?」
「顔冷たいな。大丈夫か?」
唇で私の顔の表面温度をはかったようだ。
「う、うん」
「温めてやるよ」
そう言って、自分の手で私の顔を包んで、今度は唇に軽く触れた――もちろん、自分の唇で。
何すんじゃ、このクソガキ!というシチュエーションだが、「男は嫁さんにはこういうふうにしていいんだぞ」と言われた。
そしていつものように、「俺は小学生だから、何でも知ってんだ」とも。
キスの意味なんて正確に知らないけれど、「パパやママやおじいちゃんやおばあちゃんが知ったら、叱られそうなことをしている」ことだけは分かった。
私は齢5歳(もうすぐ6歳)にして、「忍びあい」のロマンを嫌というほど味わってしまったのだった。
◇◇◇
時計もなく、空もどんよりとした中で、どれぐらいそうしていたか見当がつかない。
やみそうにない雨の中で、だんだん話すことも少なくなってくる。
もともと世界の狭い小学生と幼稚園児だから、そんなものだ。
「雨、少し弱くなってきたから、今のうち帰っか…」
「あ、うん」
ユウちゃんと一緒にいられなくなるのは嫌だったけれど、ここでわがままを言ったら嫌われるかもしれない。
「ちょっと走るぞ。その方があんま濡れない」
「分かった」
濡れた石段をおっかなびっくり降りると、ユウちゃんは私の手を取った。
「お前ちはどこだ?近くに何かあるか?」
「お花の種売ってる店…」
「ああ、そこなら知ってる」
ユウちゃんは早歩きになり、私はそれに引っ張られる形だった。
「あの店か?」
「うん、ミズシマタネヤさんだ」
小さな店だが、大きな国道と一方通行の生活道路の分岐のところにあり、とてもいい目印になったので、家でタクシーを呼ぶときは、いつも「ミズシマタネヤさんの前で」と母が言っていた。
「お前んちはどこだ?」
「あそこの青い屋根のおうちだよ」
私は指をさしながら言った。
「すげえな、2階建てじゃん。よし、覚えたぞ。あとは一人で帰れ。また遊ぼうな」
「うん、またね!」
ユウちゃんが自分の家の方に向かう頃には、また雨足が強くなっていた。
◇◇◇
「ただいまあ…」と言いながら戸を開けると、祖母が「あらららら――上がらないで、玄関でちょっと待ってっせ」と言いながら、バスタオルを取って戻ってきた。
「こんな雨の中で何してたんだい!」
祖母は私の頭をごしごしこすりながら言った。
語尾が「?」ではなく「!」に思えた。怒っていたのだろう。
「アマヤドリ…」
「雨宿り?どこで?」
「お…はか…」
「お墓?何でそんなところにいたの?」
「ユウちゃんと…」
しまった。ナイショだったのにしゃべっちゃった。
ただ「ユウちゃん」という名前だけなら、祖母は「そんな友達いたのかね」という感じだったようだが、5歳児の限界には既にたどり着いてしまっていた。
「それで何してたの?」
「おやつ――食べて…」
「おやつ?」
「お墓の…」
「え、お供えものかい?」
「あ…」
私はそのとき、「もうユウちゃんに会えなくなるかもしれない」ということを、直感的に悟った。