高台と花火と歌と
 西の籠屋山(かごややま)の端に落ちる遠い太陽の光を水平方向に反射して、神津(こうづ)湾は遥かに東に広げたその水面を、キラキラと不思議な色に染めていた。その藍色は間も無くの夜の訪れを静かに待っている。
 僕が見下ろす神津湾は、かつては軍需工場が立ち並び、爆撃を受けて野原になって闇市が立った。そこから幹線道路が伸びていき、地面から土筆が生えるように細々と倉庫が立ち並んだ後、そうだな、20年ほど前にきれいに整備された湾岸区域になった。今ではたくさんの人が訪れ往時の賑わいを取り戻している。
 僕はおよそ80年ほど前から、この海を望む高台に立っている。カチカチと時を刻む音を鳴らしながら、けれどもこの木の外装は潮風で痛み、何人もの作業員が僕を調べた結果、僕の躯体はもう保たないだろうと結論づけた。
 僕が眺める景色はこのようにくるくると変わったものだから、僕もこの場所から立ち去るのは仕方のないことだろう。

 その日はやけに人出が多いなと思っていた。僅かに日を反射する海面にいくつかの小舟が浮いている。そしてその手前に、やはりいつもよりさらに数倍といった人だかりができていた。
 そうか。今日は花火大会だ。
 多分、僕が見る最後の花火大会。
 そう思っていれば、この高台に登ってくる影がある。そして僕の前におかれたベンチに座った。僕の足元からでは花火の下の方、つまり海面は見えない。少し離れれば花火が海面に反射する光景が万華鏡みたいに見える。だから僕の下はあまり人気がなくて、毎年この2人がやってくるくらいだ。この2人はいつも、僕の前で真上に上がる花火を見上げていた。
 その様子は毎年少しづつ違った。そして今年も。
 初めて来たのは多分12年前だ。

「ねぇここ! 空いてるよ!」
「空いてるったってよく見えないじゃないか」
 2人は高台の下の人だかりから逃げてきたんだろう。まだ子供で、小さい。大人に埋もれてしまえば何も見えなくなる。疲れた様子の青い浴衣を着た男の子の手を赤い浴衣を着た女の子が引っ張り、僕の下のベンチに座った。
「やっぱり見えない!」
 イライラしながら女の子が叫ぶ。
 けれどもその声と同時にドンという破裂音が鳴り響き、それにつられて見上げた顔は、目がまん丸くなっていた。ここからは高台の下の方は見えないけれど、上を見る分には良く見える。
 そこから三十分ほど、2人はぽかんと空を見上げて、僕からは2人がずっと手を繋いでいるのが見下ろせた。

 次に来たのはその1年後。
 2人は少しだけ大きくなっていた。今度は花火が始まる前に、かき氷を持って現れた。やっぱり女の子が男の子の手を引っ張っていた。
「ここ、下の方は見えないじゃん」
「でも花火は全部見えるよ」
「まあそうだけどさ」
 今度は男の子の方がブツクサと不平を言っていたけれど、結局2人はかき氷を食べながら花火を見上げた。その時丁度、赤い花火が上がって長く尾を引き、それが2人の瞳に映った。
 それから毎年、2人は訪れた。

「なぁ、歌うのやめろよ。恥ずかしいだろ?」
「ここは誰もいないんだからいいじゃない」
「っつってもさ」
「今度文化祭で歌うんだから応援してよ」
 僕には男の子が、応援なんてできるかよ、と小さくつぶやくのが聞こえた。文化祭というものが何かはわからないけれど、花火が打ち上げられるのに合わせて紡がれる女の子の声は、花火の音に負けずに美しく響いた。
 けれどもそれまで同じくらいの身長だったのに、そのころから女の子より男の子の方が大きくなって、手を繋ごうとする女の子の手を男の子が弾くようになった。その時、女の子は確かに僅かに顔を伏せ、悲しそうにみえた。

「ねぇ、隣のクラスの子に告白されたんだって?」
「あ、うん、そうだよ」
「断ったって聞いた」
「うちら付きあってんじゃん」
「それは、まぁ、そうなんだけどさ、でも、なんで付き合ってたんだっけ」
 その次の年に現れた男の子は、これまでより少し霞んだ紺色の浴衣を着ていた。女の子は茜色に金魚の模様の浴衣を着ていた。その年も花火は美しく2人を照らした。

「来年受験じゃん。そしたらさ、一緒に神津(こうづ)大に行くんだよね?」
「神津大か」
「そう言ってたじゃん」
「そうだな」
 その頃くらいから、僕の下のベンチに座る2人の会話は少しずつ減っていた。2人ならんでその瞳に花火を映すのはかわらないのに。

「ねぇ、来年はどうしようか」
「お前も帰省するんだろ?」
「まあ、そうなんだけどさ。あんたが県外に出ると疎遠になるのかなって思って」
「県外って言っても隣だろ。ちょくちょく戻ってくればいいじゃん」
「まあ、そうなんだけどね」
 男の子は来年から県外の大学というところに行くらしい。だから会えなくなるらしい。けれども花火の日は毎日一日だ。その日は合おう。そんな約束が成立した。

「ねぇ、あたしたちって付き合ってるけどさ、本当にこのままでいいの?」
「何言ってんだよ、好きなやつでもできたのか」
「いや、そんなわけじゃないんだけど」
 ぶっきら棒な男の子の声に、女の子は瞼を僅かに閉じた。
 その次の年、2人はよそよそしくなっていて、僕の足元のベンチに座ってただ黙って花火を見上げていた。
 その後、3年は来なかった。だから僕はもう来ないのかなと思っていた。去年も僕の下のベンチには誰も座らずに、ただ様々な色の花火が真上の空に散っていた。
 それで今年ももう来ないのだろうと思っていたら、花火が始まる随分前に男の子だけが上がってきた。絣の模様の茶色の浴衣を着ていた。

「俺はどうしたらよかったんだろうな。県外に行かなきゃよかったのか。それよりもっと、物凄い古い話だけど、皆の前で歌なんて歌ってほしくなかったんだ」
 まだ何もない空を見上げる男の子はぽろぽろと呟く。
「きっと俺だけの特別になって欲しかったんだ」
 ぴゅういと海鳥の鳴く声がした。潮風とともに高台の大階段を駆け上がってきたものだろう。
「けど、違う人間なんだよな。思い通りになんかなるはずないじゃないか。当然だけど。でも嫌われたくもなかったんだよ。だから歌うななんて言えなかった。夢だって言ってたし」
 それは後悔というものなのかもしれない。
「そのうち思ったようにいかないのに慣れたんだ。だから多分、話し合いをやめてしまって、俺は県外に逃げたんだよ。馬鹿馬鹿しい」
「そんな事は知ってたよ」
 男の子はうろたえてあたりを探った。
 白に菖蒲の模様の浴衣を着た女の子は、男の子よりずっと前に、僕の裏に隠れていた。
「お前、何で」
「知ってた」
 その言葉と同時に女の子の瞳から涙が流れた。けれどもそれは、僕の影になってきっと男の子には見えなかったと思う。
「私たちはもうおしまい」
「何でだよ。俺はお前が好きなんだ。まだ」
「そう、まだ、好きなだけ。そのうちその『まだ』もなくなってしまう。だから今、別れましょう。『まだ』好きな間に」
 男の子の作った握りこぶしは僅かに震えていた。歯を食いしばって、そうして僕は男の子からも涙がこぼれたのがわかったけれど、それは唐突に上がった大輪の花火の影になって、それを見上げた女の子にはよく見えなかったのだろう。

 この子たちはきっともう、一緒にこの高台を上がってきて僕の前のベンチに座ることはない。なんとなく、そう思った。僕も恐らく来年はいない。時間というのはいつしか過ぎ去っていく。この子たちにとっては10年と少し、僕にとっては80年。その長さは違っていても、僕の刻む時計の時間というものは同じように何かを流し去ってしまう。
 その時、僕は鐘を鳴らした。随分久しぶりのことだ。
 皆も、僕自身ももう鳴らないといっていたのに。
 男の子と女の子は同時に振り向き、見上げる。
「この時計塔って動いてたの?」
「音なんて初めて聞くな……扉が少し開いている」
「入っても、いいのかしら?」
 僕の入り口は普段は厳重に施錠されている。けれどもその日はたまたま、直近の点検の時に鍵はかけ忘れられていた。
 2人はおそるおそる僕の扉を抜けて、螺旋階段を昇っていく。真っ暗の中、はぐれないようにお互いに手を繋いでいた。僕のてっぺんの鐘楼の鐘の脇からは花火と、それからそれを映す海面が見えるはずだ。
 2人の回りに塩っぱい風が拭きぬけた。それは海から上がってくる風で、花火が起こした風で、世界がぐるぐると自転している風だ。
 僕の2階からは僕がいつも見ている景色が見えるだろう。遥か先の神津湾とその上空に煌めく大輪の花と、それを鏡写しのように万華鏡のように映し出す海面。そして僕の直下にある小さなベンチを。
 こんなに近いのに、見ているものは皆違う。それはまるで、見る角度によって異なる花火のきらめきのようだ。
「すごく綺麗だ」
「本当。こんなところがあったんだ。こんなに綺麗だったのね」
「そうだな。俺はまた、見ていなかった。見ようともしていなかった。『まだ』」
「私もそう。『まだ』」
 その夜の花火大会はいつもよりも短いような、長いような気がした。最後に、夏の終わりを告げる強い風が吹く。
 しばらく後にすっかり静まり返った高台を2人が降りて、そして別々の方向を歩き出すのを僕は眺めていた。僕がもう見ることのないこの先を。
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