地味で無能な次女なので、私のことは忘れてください

5.初めての大仕事

 レナエルが実家に手紙を送り、それに対して返事が届くことはなかった。住所を書いていないから仕方がないが、また衛兵に託すなり、連絡を取ろうと思えば方法はあったはず。それをしないというのが実家の答えだとレナエルは悟った。
 元より、これまでとまったく違う生活に悪戦苦闘していたレナエルは、もはや実家のことなど頭から抜けていた。
 そして王妃の面接をクリアして一か月が経った。
 ようやく王宮での暮らし方や仕事に慣れてきたレナエルは、今日も朝からリュシアンの秘書見習いとして、執務室で書類をまとめている。
「リュシアン様、先月分の日報チェック終わりました。特に問題ないと思います」
「ああ、ありがとう」
「思ったより早めに終わったので、リュシアン様が希望していた安全保障部との会議スケジュール調整、私のほうで進めてもよろしいでしょうか?」
「……」
「……リュシアン様?」
 日報をまとめた書類を提出し、次の仕事の確認をすると、リュシアンは黙ってレナエルを見つめた。
(リュシアン様、どうしてなにも言わないのかしら……スケジュール調整は私には任せたくないってこと? それともほかのなにかが……)
 ここへ来ても相変わらず人の顔色を窺ってばかりのレナエルは、無言のリュシアンが自分になにを訴えかけているかを必死で考える。
(あっ! リュシアン様、糖分が足りなくて頭が回ってないんだわ。いつものチョコレートは――)
 リュシアンは疲労が溜まると、デスクの上にチョコレートの入った小さな箱を置いている。レナエルはそれを覚えていた。そして、今日はその箱の中身が空っぽだった。
(こんなこともあろうかと、この前予備をしまっておいたのよね)
 いつもその日食べるぶんしか持ってこないリュシアンを見て、レナエルは同じチョコレートをあらかじめ執務室に用意していた。
すぐさま棚の中からそれを取り出すと、ぼーっとした顔のリュシアンに差し出す。
「はい。リュシアン様」
「……え?」
「大事な糖分です。少し休みましょうか。最近、仕事量も多くて疲れているでしょう。休憩も仕事のうちです。身体を壊したらたいへんですから」
 学園を卒業したばかりのリュシアンもまた覚えることが多く、ここ最近は寝る時間も遅いのを知っている。
「……ありがとう。なにか忘れてると思ったら、このチョコレートだ。自分でも気づかなかった」
 銀色の紙に包まれたチョコレートをレナエルから受け取ると、リュシアンはそう言って苦笑する。
「なんでかわからないが、疲れた時にこのチョコレートを食べるだけでだいぶマシになるんだよな……」
「ふふ。そういうのありますよね。私も嫌なことがあると飴を舐めずに噛み砕くんです。頭の中でがりがり音が響く感覚が、嫌なことも全部粉々に砕いてくれる感じがして……一種のストレス解消方法ですね!」
「なるほど。俺の前では飴を噛み砕かせないよう気を付けよう」
 リュシアンは冗談交じりに言うと、笑いながらチョコレートを口の中に放り込んだ。レナエルはてきぱきと紅茶を用意して、箱の隣にカップを置く。あまりの手際の良さに、リュシアンも感心してしまった。
「……一か月君と仕事をしてきたけど、レナエルはすごいな」
「え? なにがですか?」
 頼まれた仕事を必死にこなすだけで、すごいと褒められるようなことはしていないとレナエルは思う。
「書類のチェックも早くてミスもない。ここ最近はこっちが言わなくても自分から次の仕事を見つけてくれる。加えて淹れてくれるお茶まで美味しい」
 さらに続けてリュシアンは言う。
「それに、さっきのチョコレートとか、俺すら気づかないことに気付いてくれた」
「えっと、それは……」
 自分はずっと、周囲の顔色を窺って生きてきたから――。褒められたのに、レナエルはそんな生き方をしてきた自分を恥ずかしいと思った。
「レナエルはすごいよ。俺が言うのだから間違いない」
 それでも、真っすぐにそうやって言われると嬉しくなるのは仕方がない。
(ダメ! リュシアン様の前なのににやけちゃう!)
 誰かに褒められたのはいつぶりか。おもわず緩む口元をレナエルは必死で隠すが、当然リュシアンにはバレバレで、わかりやすく反応するレナエルを楽しげに見つめている。
「それにしても、君の実家はあまりにも――」
 言いかけて、リュシアンははっとして口をつぐんだ。
「いや。なんでもない。……そうだ! 大事なことを忘れていた。レナエル、ランチが終わったら一度母上のところへ寄ってくれ」
「……王妃様のところへ?」
 最後に王妃に会ったのは、一か月前のあの日だ。リュシアンの秘書見習いをしても、こんなに広くたくさんの人がいる王宮で王妃と会うことはなかなかなかった。
「ああ。君に用事があるらしい」
(用事……なんだろう?)
 改めて呼び出されるなんて、よっぽど重要な話なのだろう。
「かしこまりました。あ、王妃様のところへ行くついでに、安全保障部にスケジュール案の書類を持っていきますね」
「それはありがたいな。じゃあそろそろ仕事を再開するか」
「はいっ!」
 束の間ではあるが、時間以上の充実感を得た休憩を終え、ふたりはまた仕事に取り掛かる。
 レナエルはランチまでにスケジュール案の書類作成を済ませると、昼休憩後にその書類を持ってまずは安全保障部へと向かった。
 安全保障部というのは、国の警備、防衛、安全対策を主に担当する部署だ。国が誇る王室騎士団は、こちらに所属している。
この前ミラの事件があったことで、リュシアンは犯罪対策を強化したいと考えたらしく、安全保障部との会議を望んでいた。
 部署に向かうため廊下を歩いていると、扉の前にひとりの男性が立っていた。
(あの制服……騎士団の人だわ)
 濃紺に金色の刺繍が施された上下の制服は、騎士団の証だ。胸元には王室の紋章がしっかりと刻み込まれている。
「あれ? こんな可愛い子がうちの部署になにか用?」
 その男性は扉のほうへ歩いてくるレナエルに気付くと、にこりと爽やかな笑顔を浮かべて気さくに話しかけた。
 薄ピンクの肩まである髪にチャコールグレーの瞳。口元のほくろはどこか色気を感じ、おもわず目がいってしまう。背も高く、すらっとして見えるが制服を着ていてもきちんと鍛えられているのがわかる。
「どうしたの? あ、僕に見惚れちゃったのかな?」
 無意識に凝視してしまったレナエルに、男性はいつの間にか距離を詰めて目線を合わせてそう言った。突然至近距離に現れた綺麗な顔に驚いて、レナエルは肩を跳ねらせ後ずさる。
「いえ! 違――うわけでもないんですけど!」
 否定しようと思ったが、数秒とはいえ目を奪われたのは事実のため、結局嘘をつききれなかった。
「あはは! 正直でいい子だね」
 そんな素直すぎるレナエルを見て、男性は前髪をくしゃりとかき上げながら軽快に笑う。「男ばかりのむさくるしい部署に、君みたいな子が来てくれて嬉しいなぁ。中に入って少し話をしない?」
「い、いえ。私はこの後大事な用件があるので……あの、あなたは……」
「僕はロジェ。見ての通り、まだまだ若手のしがない王室騎士団員」
 ロジェは大人っぽい雰囲気だが、言われてみると自分と同い年くらいにも見える。
「ロジェさん。私はレナエルと申します。一か月ほど前から、王宮で秘書の仕事をさせていただいております。それで、今回はリュシアン様から安全保障部宛てに書類を預かっておりまして……」
「ああ。犯罪対策強化の会議がどうとか言っていたね。僕が預かっておくよ」
「ありがとうございます!」
 レナエルは左手に抱えていた書類をロジェに渡した。
「では、お疲れ様です」
 任務をひとつ片付け、そのまま王妃のもとへ向かおうとするレナエルの腕をロジェが握った。
「……ロジェさん?」
 なにか聞き忘れがあったのかと、レナエルは目を丸くする。心なしか身体が密着しているようにも思え、ロジェの花のような香水の香りが鼻を掠めた。
「レナちゃん、本当にこれで帰っちゃうの?」
「? はい。用事があるので」
「そんな寂しいこと言わないで。今、僕以外のやつらは部署にいないんだ。だから少しでもいいから、ふたりの時間を楽しまない? せっかくの出会いなんだからさ」
 さっきより低い声色で、囁くようにロジェが言った。気づけば右手を左手で腰を支えられている。
「ごめんなさい。時間がないので無理です」
「うんうん。じゃあ楽しい時間を一緒に――えっ?」
 断られると思っていなかったのか、ロジェが目を丸くした。
 レナエルはするりとロジェの腕からすり抜けると、一礼をして顔を上げる。
「書類、よろしくお願いしますね。それとロジェさん。私は甘い誘いには乗りませんよ」
 にっと悪戯な笑みを浮かべると、ロジェは呆然とした顔でこちらを見つめていた。
そのままレナエルは安全保障部を後にして、王妃のもとへと急ぐ。
(ロジェさん……危険な人だわ)
歩きながらレナエルは思った。ノエラとシャルロットの異性へのアプローチを近くで見てきたレナエルは、さっきのロジェの行為の真意に気付いていた。
 ――この人は私に気があるのではない。目の前にいる女の子なら誰でもいいのだ、と。
 流れるように腰を抱く仕草や誘い文句も完璧だった。この時間、部署に誰もいないのをいいことに、いつもああやって誰かが来るのを待っているのだろか。とにかく、女性を誘うことにあまりにも慣れすぎている。
(悪い人ではなさそうだけど……それに、見た目はノエラお姉様のように色気があって、中身はシャルロットみたいに甘え上手だなんて……やっぱり末恐ろしい人だわ!)
 レナエルの中でロジェが危険人物に認定されたところで、気づけば王妃の部屋の前に到着していた。前回のように扉の前で挨拶をすると、王妃の声がして中に入るよう促される。
「久しぶりね。レナエル」
 今日もまた、煌びやかなドレスと宝石を全身に纏った王妃がレナエルを出迎える。
「ご無沙汰しております。王妃様。本日は御用があるとお聞きしてこちらに参りました」
「ええ。そうなのよ。……ところで、秘書の仕事には慣れてきた?」
 本題に入る前に、王妃は近況を聞いてくる。
「はい。まだ未熟なところはありますが、一生懸命仕事と向き合っております!」
「リュシアンからも聞いてるわ。想像よりずっと仕事ができるから驚いたって。ほかの王宮秘書からの評判もいいみたいね」
「恐縮です。みなさんお優しくて、いつも助けられてます」
「でも――〝しっかり成果を出す〟については、まだ足りないと思わない? あなた、このまま残りの一か月も普通の仕事だけこなすつもりなのかしら?」
 王妃の言葉で、和やかだった空気が一変する。
(……その通りだ。この一か月、とにかく慣れることに必死だった。当たり前の秘書業務をこなすだけで、自ら新しい仕事に手を出そうとしなかった)
 ここで王妃に言われなければ、残りの一か月も同じことをしていただろう。お試し期間は二か月しかないのに、レナエルは与えられた仕事をきちんとこなせば、それが成果に繋がると勘違いしていた。
「……お恥ずかしながら、王妃様の仰る通りです」
 少し褒められただけで舞い上がっていた自分が恥ずかしくなる。
「まあそんなに落ち込まないで。私、あなたの秘書スキルには期待しているの。だからわざわざ事実を突きつけたのよ。それと、新たなチャンスを与えようと思って」
「チャンス?」
「最近、領主が亡くなった領地があってね。最後のほうは経営もままならなかったみたい。相続人もいなかったから、一旦王家が引き取ることになったの。今後はどこかの領主に渡すことになると思うんだけど、そのためにはまずこっちでしっかり立て直し計画を立てて、領民たちにも納得してもらわないといけない。そこで、立て直しをあなたとリュシアンに任せようと思うの」
「えぇっ!?」
 これまでとは規模の違う大きな仕事に、おもわずレナエルは声を上げた。
「リュシアンも初めての大仕事になるから、あなたがサポートしてあげてね。この仕事をうまく成功させれば、あなたは正式雇用よ!」
 おほほほほと笑い、王妃は高みの見物を楽しませてもらうようレナエルに微笑んだ。
(なんて無茶ぶりなの……でも……私だって、無茶ぶりには慣れているんだから!)
 散々窮地に立たされてきたレナエルだ。これが王妃からの挑戦状というなら受けて立つ。レナエルは覚悟を決めて、王妃から領地に関する資料をもらい、部屋を後にした。
 
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