地味で無能な次女なので、私のことは忘れてください

2.人生が変わるとき

 レナエルが目を閉じて、助けを叫んだその僅か数秒。
 ミラが手に持つナイフがレナエルの腹部に刺さる直前で、何者かによってナイフが弾き飛ばされた。
「大丈夫か!?」
 聞きなれない男性の声が聞こえて、レナエルはゆっくりと目を開ける。伸ばしっぱなしの前髪の隙間から、こちらの様子を気に掛ける男性の姿が見えた。夜道でもわかるほど綺麗な白銀の髪を揺らし、吸い込まれそうな碧眼を持っている。
(……どこかで見たことある気がするような……ていうか私、助かった!?)
 あまりに整った顔が急に視界に飛び込んできたものだから、一瞬自分がピンチに陥っていることを忘れてしまった。レナエルは自身が無傷であることを確認し、ほっと胸を撫でおろす。
「だ、大丈夫です。あの、あなたが助けてくれたんですか?」
「ああ。なんだか騒がしいなと思って様子を見に来たら、君の声が聞こえて――」
話している男性の背後に、ふらりと立ち上がるミラの姿が見えた。
「危ない!」
 地面に落ちていたナイフが再度、彼女の手に握られているのを確認してレナエルは叫んだ。すぐさま男性を左方向へと突き飛ばすと、男性の背中めがけて飛んでいたはずの刃先がレナエルの頬をシュッと掠める。
 反射的に右手で頬を押さえると、手のひらには生温かく赤い液体がべったりと付着していた。そこまで痛みはないため、かすり傷程度ではあるはずだ。
「放せ! 邪魔するな!」
 レナエルが血の付いた手のひらを眺めていると、ミラの怒り狂った叫び声が聞こえた。視線をそちらに向けると、すぐそばで先ほど自分を助けてくれた男性が、後ろから思い切りミラを羽交い絞めしているではないか。
 ナイフは取り上げられ、既にミラの手中にはない。ミラは必死で暴れているが、男性の力には勝てずびくともしない。唯一できることが大声を上げることなのだろう。
「……君、いい加減おとなしくしたほうがいいぞ」
 未だにぎゃあぎゃあと喚きたてるミラに、男性が冷静な声で言い放つ。その声色はあきらかに怒りがこもっており、突然雰囲気が一変した男性を目の当たりにして、レナエルはぞわりと背筋が凍った。
「俺が誰だか、見えていないのか?」
 男性が拘束を解き正面からミラの顔を覗き込むと、ミラは目を見開いて、その後ガタガタと全身を震わせた。
「ご、ごめんなさい……! お許しください。どうか命だけは……!」
 ミラはすぐさま地面に這いつくばり、額をも擦り付けながら男性に謝罪した。
(なになに!? どれだけ怖い人なの……!?)
 つい数秒前まで発狂していたミラが一瞬で顔面蒼白になる相手だ。ただ者ではないとレナエルは思うが、未だにこの男性の正体が思い出せない。
「俺にナイフを向けただけじゃない。君は大事な国民を傷つけようとした。明らかな殺意を抱いて。……いくら謝罪されようとも許せることではない」
「ごめんなさい。私、我を忘れて……どうかしていたんです……!」
 我を忘れていたのは本当だろう。どう見ても、ミラの様子はまともではなかった。婚約者を失ったショックで、精神的に追い詰められてこのような凶行に及んだのだとレナエルはわかる。
(だとしても……あのまま殺されていたらたまったものじゃないわ)
 それでも、人を傷つけていい理由にはならない。
 その時ちょうど、男性の付き人と思わしき人物が二名ほど走ってこちらに向かってきた。
「リュシアン様、大丈夫ですか!」
「様子を見てくると言ってからお戻りにならなかったので……」
 付き人が息を切らして言う。男性の名はリュシアンというらしい。
(リュシアン……?)
 聞き覚えのある名前にレナエルは首を傾げる。リュシアンという名前は、ルクレール王国の王子と同じ名前だ。
(でも、王子がこんな森にいるはずないわよね……?)
 レナエルが散歩する森は実家の近く。オーバン伯爵家の屋敷は、王都からは少し離れた場所にある。
 まさかねと思いつつ、リュシアンが王子だとすればミラがあそこまで怯えていたのにも合致がいく。だが、本人に「王子ですか?」なんて馬鹿げた質問をこの状況でできるはずもない。
(リュシアン王子なんて関わりがなさすぎて、姿をはっきり覚えていないわ!)
 心の中でレナエルは自らの著しい記憶力を恨んだ。
 リュシアンとは王立学園で同級生だったが、学科が違ったためほとんど関わることがなかった。社交界でも、リュシアンは雲の上の存在。自分なんかが近づけるような人ではない。そもそも王子が来る社交場に呼ばれることもない。
基本的に人と関わらないように生きてきたレナエルは、リュシアンの姿すらまともに覚えていなかった。かなり失礼な話であるが事実である。
 混乱したまま付き人とリュシアンの話を聞いていると、どうやらリュシアンはひとつ隣の道を馬車で偶然走っており、なにやら異変を感じて単独で様子を見に来たらしい。すると、レナエルがミラに追いかけられて今にも刺されそうな場面に遭遇した。
 そして帰りが遅いことを心配した付き人たちが、ちょうど今こちらに到着した、という流れだ。
「ああ。無事だ。こんな場所で罪人を捕まえるとは思ってもみなかったが……。彼女は殺人未遂を犯した。早急に連行してくれ」
「さ、殺人未遂!? かしこまりました!」
 まさかこんなか弱い女性が? と、付き人もミラを見て信じられないというように目を丸くしている。
「許してください! どうか処刑だけは! ……悪いのは全部この女よ!」
 二人がかりで連行されながら、ミラは必死な形相でリュシアンに許しを乞う。それでも最後は憎しみのこもった眼差しを、なんの関係もないレナエルへと向けた。
(……とんでもない逆恨みだわ。歴代でいちばんね)
 そう思いつつ、ミラが幸せそうに婚約者の隣を歩いていた光景を思い出し、レナエルはちょっとだけ彼女に同情した。
(自分を刺そうとした相手に同情するなんて、我ながら馬鹿よね。こんなだから、いつも足元をすくわれるんだわ……)
 自己嫌悪に陥っていると、この場に残ったリュシアンがレナエルにゆっくりと近づいてくる。そして突然レナエルの頬を両手で包み込むと、くいっと顔を上へと向けさせた。
(なななな、なに!?)
 じーっと間近で宝石のような瞳に見つめられ、レナエルは蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。
「さっき、俺を庇ってナイフが頬に触れていたよな?」
「へっ? ……ああ。はい。そういえば」
 思い出すと、途端に頬が痛み始めた。それでも血は既に止まっているため、大したことはない。
「本当に申し訳ない。女性の顔に傷をつけてしまうなんて……」
「全然問題ないです。私の顔に小さな傷がひとつついたところで、特になにも変わりませんから」
 これがノエラやシャルロット、そしてリュシアンのように美しい顔をした人だったら、こんなふうに振り切れなかっただろう。レナエルはむしろ傷ついたのがリュシアンでなく自分でよかったとすら思った。ついでに、そんなことよりさっさと手を離してほしいと思う。
「なにを言っているんだ。問題ないわけないだろう」
「? ありませんよ。私、あなたのように綺麗な顔をしているわけじゃないし……」
 真面目に答えるレナエルに、リュシアンが戸惑いの表情を浮かべる。
「とにかく傷を見せてくれ。……髪の毛が邪魔だ。避けさせてもらうぞ」
「えっ!? い、いいです! ただの掠り傷ですから!」
 長い前髪のおかげで、頬の傷も自分の顔もほとんど見られずに済んでいたのに。リュシアンの手がレナエルの前髪をかき分け、その先を見ようと強行突破してきた。
「……やっぱり、傷になってる」
 抵抗虚しく露になった自分の顔。視界が広がり、レナエルはどこに視線をやっていいかわからなくなる。
 リュシアンは眉を下げたまま、レナエルの頬にできた一本線の傷の下を優しくなぞった。
「神殿にいる治癒魔法使いを呼んで、すぐに治癒してもらおう」
「そ、そんな! こんなの放っておけば治りますから!」
 個人的に治癒魔法を頼むのには、それなりの値段がすることをレナエルは知っていた。深い傷を負ったわけではないため緊急性もない。助けてもらった相手にこれ以上なにかを頼めないと、レナエルはリュシアンの提案を丁重にお断りさせてもらう。
「それより……あの、そろそろ手を離してもらえますか?」
「あ、ああ。すまない……」
 レナエルがじっとリュシアンを見つめると、自然と上目遣いになる。視界が広いことに慣れないレナエルは、早く前髪で顔が露出する面積を減らしたかった。
 それなのに、なぜかリュシアンは前髪を分けたままレナエルの顔を凝視する。
(なんなの、この人!)
 王子かもしれない相手に、レナエルは苛立ちすら覚え始めていた。さっきからずっと、レナエルの要求を無視するからだ。
 しかし、リュシアンはそんなレナエルの気持ちなどつゆ知らず、未だにレナエルを見つめ続ける。
「……君って、自己評価がずいぶんと低いんだな。俺からのアドバイスだが、傷が治ったらすぐに前髪を切ったほうがいい」
ようやく手を離したかと思うと、リュシアンは真顔でぼそりとそう呟いた。
急に自己評価とかアドバイスなどと言われても、レナエルは意味がわからない。正直、よけいなお世話である。目立ちたくないから前髪を伸ばしている。ただそれだけなのだから。
「じゃあ神殿に行こうか」
「……行かないってさっき言いましたよね?」
「なにを遠慮しているんだ。この傷は俺の責任でもある。放置はできない」
「遠慮なんてとんでもない。あなたは私を助けてくれました。それがこの傷に対するじゅうぶんすぎるお返しです。掠り傷程度で治癒魔法使いとあなたの手を煩わせることはできません」
「……君、変なところで頑固だなぁ」
 傷を治してあげると言っているのに、ここまで拒否されるとはリュシアンも思わなかったのだろう。リュシアンは口角をひきつらせて小さなため息を漏らした。
 それでもリュシアンとて、なにもせずにレナエルとここでお別れ、というわけにもいかない。
「君には今回の事件について詳しく聞きたいところだが……今日はもう遅い。日を改めて、なにが起きたかじっくり聞かせてもらうことにする。だからせめて、今日は屋敷まで送らせてくれ。それくらいはしていいだろう?」
 殺されかけた直後に詳細を無理に話させるのはよくないと判断したのか、リュシアンはとりあえずレナエルを無事に送り届けることを今度は提案した。
「……屋敷」
「ああ。俺が必ず、無事に家まで送り届ける。君の実家まで案内してくれないか?」
「……実家」
 レナエルはリュシアンに言われた言葉の一部を、ただ呆然と小声で繰り返す。
(私、今からオーバン家に帰らなくてはならないの? ……こんな目に遭ったのに? またあのふたりに振り回されて、同じことを繰り返すの?)
 ミラに追いかけられている時、レナエルは本当に怖かった。同時に、後悔していた。
 どうして自分はこの十八年間、なにも変わろうとしなかったのかと。自分の悪いところばかりに注目して、仕方ないで全部済ませて、状況を変えようともしなかった。
 おとなしく言うことを聞き、姉と妹に目を付けられないようできるだけ目立たないようにする。そうやって逃げてきたつもりだった。だけど、実態はどうだろう。
 黙って姉と妹のフォローに回った結果、ついには逆恨みで殺されかけたのだ。
(屋敷へ戻って事情を説明したって、シャルロットは謝罪のひとつもしないに決まってる。それどころか、騙されたミラのこと……そして私のことすら嘲笑って終わりでしょうね)
 ノエラも両親も、レナエルがシャルロットの行いのせいで危うく死にかけたところでなにも思わない。せいぜい『なんだか大変だったみたいね。どんまい』くらいの軽い答えが返ってくるだけだ。そんなこと、レナエルは当たり前に理解していた。
(本気で逃げたいなら……さっきみたいに、助けてと叫べばよかったんだ。そうすれば――彼みたいに、助けてくれる人がいるかもしれない)
 レナエルの『助けて!』という叫び声を聞いて、リュシアンは間一髪でレナエルの命を救うことができた。レナエルは声を上げることの大切さを、この時ようやくわかった。
 そして一度死にかけたことで気づいたのだ。必死にミラから逃げるレナエルの脳内で流れた走馬灯は、後悔の記憶ばかりだったことに。
(……このままでいいわけがない。私はオーバン家に戻りたくない!)
 いつも心の中だけに留めていた本心が、今日は喉元まで上がっている。あともう少し勇気を出せば、それは声となり、そばにいるリュシアンに届くはずだ。
「どうしたんだ? さあ、君の実家までの道を――」
「い、嫌です!」
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