地味で無能な次女なので、私のことは忘れてください
「……?」
 気づけばレナエルは、リュシアンの腕を掴んでいた。その手は小刻みに震えたが、力が抜けないよう、レナエルはもう一度ぎゅっと腕を掴む手に力を込める。
「私、実家には帰りたくありません……!」
 勢いよく顔を上げ、レナエルはリュシアンを見つめた。その勢いで長い前髪がはらりと揺れて、自然とレナエルの素顔が晒される。さっきまで宿っていなかった光が、レナエルの深緑の瞳に今度はしっかりと刻まれていた。
「私を助けてください。……リュシアン様」
 きちんと声に出して言えた。レナエルにとって、それだけでも大きな進歩だ。
(ダメ元でもいい。まずは伝えることが大事なんだもの)
 今思ってることをとにかく実行することしか考えていないため、先を見据えてリュシアンに助けを乞うているわけではない。だが、レナエルにとってこれはチャンスだった。帰る場所がオーバン伯爵家でなければどこでもいいのだ。
「……俺の提案はことごとく拒否するくせに、それでも俺に助けを求めてくるんだな?」
 矛盾したレナエルの行動に、リュシアンは冷静に言い返す。人の顔色を窺うのが癖になっているレナエルだが、この時のリュシアンの感情は少しも読めなかった。
「治癒魔法使いによる傷の治療も、実家への見送りもいりません。ただ、私はどうしても実家に帰りたくないんです! お願いです! 私を実家以外のどこかへ連れてって、そこに置いて行ってください!」
「……置いて行っていいのか?」
 実家以外に行く当てがなさそうなのは節々から感じられるのに、最後まで面倒を見てくれと望まないあたりがまた不思議で、リュシアンはおもわず笑いそうになる。
「ひとつ聞かせてくれ。君が帰りたくないのは……今回の事件となにか関係が?」
 ミラがレナエルを刺そうとしたことに、裏で実家が絡んでいる。リュシアンはレナエルの必死な姿を見てその考えにほぼ確信を持ち始めていた。
 レナエルは僅かに鋭くなった眼差しを感じて、この人に嘘をついても見透かされると悟った。そもそも嘘をつく理由もないため、ここはしっかりと強い意志を持って大きく頷きを返す。
「……なるほど。君の気持ちはよくわかった」
「! それじゃあ――」
「実家への見送りはとりやめよう。行先は一旦、俺に任せてもらえるだろうか」
(……ダメ元だったのにいけた!)
 オーバン伯爵家では、レナエルがなにを言っても聞く耳を持ってもらえなかった。幼少期からそんな対応をされたせいで、レナエルは誰かに頼みごとをするという行為自体を忘れていた。
 それがどうだろう。ひとたび勇気を出してみたら聞き入れてもらえたのだ。こんな簡単に聞き入れてもらってよいのかと戸惑いを感じつつ、レナエルは「はいっ! もちろん!」と前のめりに返事をした。
「ただし、俺のもうひとつの提案をのむことが条件だ」
「……と、いいますと?」
「道中で神殿に寄って、確実に治療を受けてもらう。それを約束するなら連れて行ってあげよう。……実家以外のどこかへね」
 レナエルがどうしても実家に帰りたくないのと同じくらい、リュシアンはどうしても頬の傷を治したいらしい。
 ここまで言われては、レナエルも拒否することができない。
「……わかりました」
「交渉成立。じゃあ行こうか。もう一台馬車を待たせてある」
 そう言ってリュシアンが歩き出したため、レナエルも慌てて後ろをついて行く。
(傷も治してもらって、私の要求も聞いてもらって……この人にはなんの得もなさそうだけどいいのかしら)
 レナエルは複雑な心境を抱えながら、前を歩くリュシアンの背中を眺めた。

 森から馬車を走らせ、三十分ほどで王都にたどり着く。レナエルが王都へ出たのは学園に通っていた時以来だ。
 一年ぶりの王都。しかも夜の王都の景色を見渡す機会はなかなかない。煌びやかな外灯がとても美しく、夜空の星がそのまま王都に反映されているかのようだ。
 約束通りまずは神殿に寄り、レナエルは治癒魔法使いに頬の傷を癒してもらった。それほど大きくない切り傷だったため、治療はほんの数秒で終わった。
(すごい。綺麗さっぱりなくなってる)
 渡された手鏡で消えた頬の傷を確認し、レナエルは治癒魔法の凄さを再確認する。魔力には属性があるが、こういった治癒を含む〝聖魔法〟が使える者はほんの一握りしかいない。
(まさに、選ばれし者って感じね……)
 自分とは生まれた時から世界が違うのだろうなと、治療を担当してくれた綺麗な女性治癒魔法使いを見てレナエルは思う。だがそこに妬み嫉みはない。選ばれし者への純粋な憧れの眼差しを目一杯送り終えると、レナエルはリュシアンと共に再度馬車へと乗り込んだ。
「傷、消えてよかった。小さくても顔にあるとどうしても目立つから」
 リュシアンはレナエルの頬から傷がなくなったのを見て、安堵の笑みを漏らして言う。余程気にしていたのだろう。
(髪の毛で隠せるから、そこまで目立たなかったと思うけど)
 せっかく治してもらっておいて、そんな野暮なことは言わなくていいと判断し、レナエルはひそかにそう思った。
「あの、ありがとうございます。なにからなにまで……」
「いいや。それに、まだもうひとつの要求は叶えられていないからな。……じゃあ行こうか。王宮に」
「……王宮!?」
 どこに連れて行かれるか予想もつかなかったが、さらりとネタ晴らしをされてレナエルは驚きの声を上げた。
「なにをそんなに驚くんだ? 俺がどこかへ連れて行くとなると、真っ先に王宮が思い浮かぶはずだろう。それともなんだ? 俺が君を適当な場所へ置いて帰るような非道なやつに見えた?」
「いや、そういうわけでは……ああ、リュシアン様って、やっぱり王子様だったのですね……」
 王族相手にとんでもない要求をしたとレナエルは頭を抱える。どこかで〝同じ名前の王子ではないリュシアン様〟の可能性を追っていたが、そんな都合のいい話はないようだ。
「……君、俺が何者か今気づいたのか?」
 腕と足を両方組んで、リュシアンは呆れた表情を浮かべてレナエルを見た。
「だ、だって、王子が夜遅くにあんな森にいると思わなくって……」
「なんだその理由……。公務で遠出することは普通だ。はあ。俺ってあんまり世間に認知されていないんだな。さっき君に自己評価が低いと指摘したが、どうやら俺は自己評価が高すぎたらしい。反省しよう」
「いえ! 私の記憶力と興味のなさが問題なのでリュシアン様は悪くありません! ……あ」
 へこむリュシアンをフォローするために放った言葉が、さらにリュシアンの胸を抉る。レナエルもそれを言い終わった後に気付き、しまったと自分の手で口を塞ぐも時すでに遅し。
「……興味を持たれるよう精進するよ」
 リュシアンのその言葉に、レナエルはなにも言えなくなってしまった。
(私、王宮に着くなり不敬罪で捕まるなんてことないわよね……?)
 馬車内で顔面蒼白になるレナエルの心配をよそに、馬車は王宮へと到着する。
「はい」
「え!?」
「……馬車から降りるエスコートをされるの、そんなに嫌だ?」
 先に降りたリュシアンから手を差し伸べられ、レナエルははっとする。
「嫌とかではなくて……こういうの、初めてなので」
 勝手がわからなければ、王子の手に簡単に触れていいかもわからない。
「初めて? ……君、貴族令嬢だろう?」
 男性にエスコートされる場面など山ほどある。大体貴族ならば、使用人がこうやって主を支える場面もあるはずだ。
「そうですけど……いつもひとりでひょいって降りていたので」
 至って真面目に答えるレナエルに、リュシアンはさらに目を丸くさせた。だが、ひとりで馬車を軽やかに降りているレナエルが何故か安易に想像できてしまったのか、リュシアンはくすりと笑いをこぼす。
「はは。見かけによらずお転婆だな。それじゃあ今日は、俺が君の初めてのエスコート相手になろう」
 改めてすっと差し伸べられる手をレナエルはぎこちなく取る。戸惑いと恥ずかしさが混ざり合い、レナエルの鼓動が速まった。
(のんきにリュシアン様の隣を歩いちゃってるけど……本当に大丈夫なのかしら。引き返すなら今しか……)
 玄関までの道を歩きながら、レナエルは自分の置かれている状況を冷静に見直す。助けを求めた相手は国のトップといえる王族で、ここに足を踏み入れたら、もう元の日常は戻ってこない予感がした。
(……それでいい。引き返すほうが無理な話だもの。こうなったのは全部、私の運命を変えるチャンスを神様が与えてくれたからだわ)
 シャルロットがミラの婚約者を奪ったことも、責任を擦り付けられミラに殺されかけたことも、全部をレナエルはチャンスとして活かすことにした。
 引き返すことはせず、ついに王宮へ足を踏み入れる。そしてその瞬間、レナエルはリュシアンから手を離すと、背筋をピンと伸ばしリュシアンの正面に立った。
(今日だけここに置いてもらって実家に帰されるのはごめんよ。こうなったら、もうどうにでもなれだわ)
 王宮へ来た時点で、レナエルは腹をくくっていた。
 自分の第二の人生を、今日この瞬間から始めるのだと。そのために、レナエルは王宮へ留まる理由を瞬時に考える。
「リュシアン様――私をここで働かせてください!」
 時計の針が二十三時を指した王宮広間に、レナエルの声が響き渡った。
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