地味で無能な次女なので、私のことは忘れてください
3.王宮秘書見習い、レナエル
レナエルは頭を下げたまま、上質な布で作られた赤いカーペットをひたすら見つめてリュシアンの返答を待った。
「……本当に今さらで申し訳ないけど、君、名前は?」
「あっ。申し遅れました。レナエルといいます!」
そういえば名乗っていなかったことを思い出し、レナエルは慌てて遅めの自己紹介をする。その拍子におもわず顔を上げてしまったため再度下げようとするが、リュシアンに止められてしまう。
「そのままでいい。それでレナエル――君はずっと、俺を困らせるような要求ばかりしてくるな」
(うっ……その通りすぎてなにも言い返せないわ)
肩をすくめるリュシアンを見て、レナエルは気まずさに俯いた。
「……詳しい話は客間で聞こう。レナエル、こっちへ来て」
「は、はい!」
リュシアンが王宮の奥のほうへと案内してくれ、レナエルはそれについて行く。
(話は聞いてくれるのね。ここでどうにかリュシアン様を説得しないと、明日にはここを追い出されちゃうわ)
どうやってうまく自己アピールをするか考えるも、自己アピールをしたことがないためわからない。でも、レナエルの中でオーバン家には帰らないという意思は強固となっている。
リュシアンと会ったのも、王宮へ来たのも、きっとなにかの縁だ……と思いたい。それに王宮で働くことができれば、今後自分ひとりで生きていけるだけの知識や経歴も身に着けられる。
(国のトップが住む王宮での就職経験は、私の今後の人生の手助けになるわ)
実際、王宮での就職経験があればその後はどこの職にも就きやすいと言われている。伯爵家から逃げたばかりのレナエルからすると、こんなに運のいい巡り合わせはない。
長い廊下を歩いた最奥の部屋に到着すると、リュシアンが扉を開けた。
「入ってくれ。レナエルは今日、ここに泊まるといい」
そう言って案内された客間は、実家の自分の部屋よりも数倍豪華な部屋だった。
(広さも二倍はあるし……置いてある家具も小物も純金のものばかり……ベッドもひとりで寝るには大きすぎじゃないかしら!?)
客間でこれなら、リュシアンや国王、王妃の部屋はどれくらいすごいのかと興味が湧く。こんな部屋に泊まれるなんて、まるでお姫様にでもなったような気分だ。
オーバン家で、レナエルはいちばん狭い部屋をあてがわれていた。なにも欲しがらないレナエルの部屋は殺風景で、それならわざわざ広い部屋を用意しなくてもいいだろうと判断されたのだ。
(実際は私が欲しかったものや、お小遣いで買ったものも全部、ノエラお姉様とシャルロットに奪われただけなんだけどね)
レナエルが王宮の客間に泊まったことが姉妹に知られたら、ふたりはなんとしてでも自分もそこに泊まろうとするだろう。下に見ているレナエルが、自分より贅沢な経験をしていることをあのふたりが許すはずがない。
「荷物もなにもないようだから……着替えはクローゼットにあるのを勝手に着るといい。今着ているワンピースは汚れているし、洗うよう言っておく」
転んだせいで、レナエルが着ているネイビーのワンピースにはあらゆる箇所に土が付着していた。暗い色のためそこまで目立たないが、王宮で汚れたワンピースを着続けるわけにもいかず、レナエルはリュシアンの厚意に甘えることにする。
一旦リュシアンに部屋から出て行ってもらい、レナエルはクローゼットに置いてある服に着替えた。ゆるっとした大き目の白いシルクのワンピースは、締め付けがなく寝間着にちょうどいい。
(ものすごく高そうだから、丁重に扱わないと……)
うっかり飲み物をこぼしてシミをつけてしまえばいくら請求されるだろうか。こんなに肌触りの良い服は初めてだが、それ故に値段は相当なものだろう。
「リュシアン様、もう大丈夫です!」
扉を開けて、待機してくれていたリュシアンを部屋へ招き入れると、リュシアンはソファにどさりと座り込んだ。
レナエルが黙ってリュシアンの前に立ち尽くしていると「君も座れば?」と声をかけられる。
(……どこに?)
空いているのはリュシアンの隣だけで、そんな場所は恐れ多くて安易に腰をかけることはできない。ベッドに座るのも論外だ。床に正座でもしたらいいだろうかと考えたが、そんなことをして喜ぶのはノエラやシャルロットくらいなもので、リュシアンは求めていないだろうとレナエルは考える。
「いえ。私は立っていたい気分なので……!」
「? そうなのか。まぁ、疲れたらいつでも座っていい。それで、さっきの話を詳しく聞こうか」
背もたれにもたれかかっていたリュシアンが、今度は前のめりになり膝の上で頬杖をつく。
「レナエル。君の要望は王宮で働きたい、だっけ?」
リュシアンの優しい声色とは反対の鋭い眼差しは、レナエルがどこまで本気かを試しているようだった。
「はい。さっきも言った通り、私は実家に帰りたくありませんし、帰る気もありません。だからといって、どこか行先があるわけでもない。……こうしてリュシアン様と共に王宮に来たのがなにかの縁ならば、その縁を大事にしたいと思いました」
「君は俺に、どこかへ連れて行って、そこに置いて行ってくれと頼んだ。もし王宮じゃない場所に放置されていたらどうするつもりだったんだ?」
「その場合は、そこで今後どうするかを考えるつもりでした。私のいちばんの願いは、実家から逃げることだったので」
「なるほど。それで連れられた先が王宮だったから、ここで今後どうするかを考えた時に、働かせてもらうのが得策だと一瞬で思いついたということか」
「……大体そんな感じです」
そこまですぐに頭が回ったわけではないが、ほぼ正解だ。リュシアンの理解能力の早さにレナエルはひそかに感動する。ノエラとシャルロットはなにを言おうが、ちっとも理解してくれなかった。理解する気がある相手と喋れば、こうも簡単に会話が通じるのだとレナエルはようやく気付く。
「この先ずっと王宮に住まわしてくれとは言いません。私の居場所が見つかるまでの間だけでいいんです。もちろん、都合のいいことを言っているのは重々承知しております。……私、なんでもしますから! お願いします!」
明日どこかへ放り出されてまたイチからどうするかを考えるより、このまま王宮にしばらく置いてもらえるほうがどう考えたっていい。第二の人生をよりよくするために、レナエルはもう一度誠心誠意リュシアンにお願いする。
「……なんでも、か」
リュシアンはゆっくりと立ち上がると、レナエルと目線を合わせるようにして屈んだ。品定めされているようで、レナエルに緊張が走る。
「例えば侍女になるとしたら、毎日朝から晩まで広大な王宮の敷地を掃除をしたり、俺たち王族の世話や客人の世話をして、衣服や食事だって手配しなくてはならない。貴族令嬢だった君が、そんなこと耐えられるのか? 今まではやってもらう側だったろう?」
まるで尋問するかのように、リュシアンはレナエルの周囲をぐるぐると回りながら話す。
「雇ってすぐにやっぱり無理と言われたら、君を連れてきた俺の評価にも影響が出る。できないことをできるとだけは言わない方がいい。……今の俺の話を踏まえて、レナエルはどう思う?」
〝なんでもする〟というレナエルの発言が、リュシアンからすると引っかかったようだ。その場しのぎのための発言と思われたのかもしれない。だが――。
「できます」
「……え?」
リュシアンの足が、レナエルの正面でぴたりと止まった。
「今リュシアン様が言ったことなら全部できます。もちろん、王宮で働くとなるともっと作法を学びなおす必要はあるかと思いますが。実家でも掃除はやっていたし、食事の手伝いも客人相手のお茶出しもやっていました」
「……君が?」
「はい」
「なぜ?」
「……誰もやらないから? ですかね」
リュシアンは心底不思議そうな顔をしてレナエルに問いかけるも、レナエルもまた首を傾げた。
(一度やり出したら私がやるのが当たり前になって、私自身も自分がやるほうが早いから、なにも不思議に思わなくなっていたけど……)
実際考えると、貴族令嬢が使用人みたいなことをするのはおかしいのだろう。
「それに私、なんでもできるとは言っていません。でも、頼まれた仕事はなんでもやってみせます! できないことをできるようにするための努力だって、もちろんします!」
それがなんでもするって意味だと、レナエルはリュシアンに訴えかける。
「私のことをその辺の貴族令嬢と一緒にしないでください」
レナエルはノエラとシャルロットというとんでもない爆弾を抱えて、これまでオーバン家の伯爵令嬢をやってきた。表に出ず裏方でサポートすることは、むしろレナエルにとって日常だ。掃除もなにもできない甘ったれた令嬢とリュシアンに思われることは、レナエルには少々心外だった。
(……あっ。でも、リュシアン様は私の事情なんか知らないんだから、そう思っても仕方ないわよね……! ど、どうしよう。よけいなこと言っちゃった!)
勢い余って言ってしまったことを、レナエルは即座に我に返って後悔する。
「……ふっ。あははっ!」
だが、予想外にもリュシアンはレナエルの発言に笑い声を漏らした。楽しそうに笑う姿を見てレナエルは呆然とする。
「言われなくてもしてないさ。だって君、すごく変わり者だし。少なくとも俺はこの十八年間、君みたいな子には会ったことがない」
褒められているのか貶されているのかレナエルにはわからなかったが、今日いちばんの笑顔を見て、不快にさせてはいないのだろうなと察する。
「おとなしそうなのに無鉄砲さがあるのも面白い。話せば話すほど、君という人間に興味が湧いてくる」
「……リュシアン様を楽しませられるほど面白い人間ではないかと思いますが」
「いいや。現に今俺は楽しい。レナエルは俺の予想を超えることを言ってくるからな」
「はあ……」
どちらかというと王子相手に無礼なことを言っている気がするが、それが謎に刺さったようだ。
「はー。久しぶりに笑った。そういえば、大事なことを聞き忘れていた。……さっきの女性に襲われた理由に実家が関わっていると言っていたが、なにがあったんだ?」
リュシアンの話によると、ミラは罪人が拘束される地下収容所に入れられているらしい。処刑とまではならないようだが、殺人未遂となると長い間収容所からは出られないだろうとリュシアンは言った。
「彼女の婚約者に私の妹がちょっかいをかけて……婚約破棄に至ったようなんです。彼女はそれを私のせいと思っているみたいで、急に襲い掛かってきました」
「男女の色恋沙汰か。……彼女は俺も学園で何度か見かけたことがあるが、婚約者といつも一緒にいたのを覚えている。……恨みは相当なものだったということか」
ミラからすると、ただの色恋沙汰では済まされないほどの大事件だったに違いない。
「でも、悪いのは君ではなく君の妹だろう? なぜ君が犯人だと勘違いされたんだ?」
「それは……妹には悪い癖があって、都合が悪くなると誰かのせいにしがちなんです。こういった男女トラブルは姉妹間でこれまで何度もあって……ついに殺されかけたことから、私も本格的に身の危険を感じました。このままトラブルの渦に巻き込まれたらまずいと」
レナエルが姉や妹の悪事を誰かに話すのは、これが初めてのことだった。しかし、さすがにすべてを話そうとも思わない。それは、なにを言おうと今までそれらに目をつぶってきたレナエルにも、少なからず自業自得な部分があると思ったからだ。
「……そういうことか。でも、君が急にいなくなったら家族は驚くんじゃないか?」
「驚きはするかもしれませんが……一生懸命捜索するとも思えませんね」
自分で言ってレナエルは苦笑する。
両親もノエラやシャルロットばかり気にかけて、レナエルのことには興味がなさそうだった。しばらく帰ってこなくたって、騒ぎにはしないだろう。
「もし実家から捜索願が出されたら、その時は無事に生きていると一報入れます。ただ、連れ戻されるのは絶対に嫌です」
オーバン家は基本的に辺境地の領地経営を主な仕事としている。社交場で同等の伯爵家や子爵家と絡むことは結構あるが、王家との関わりはほとんどない。王家側から招待状を出さない限り、王宮で会うことはまずないはずだ。
「そうだな。こっち側が君を拉致したとも思われたくないし、捜索願が出された時はきちんとした対応をさせてもらう。……その条件を呑めるなら、働くことを許可しよう」
「本当ですかっ!?」
「ただ……君を雇うかどうかの最終決定を下すのは残念ながら俺じゃない。俺の母親、つまり王妃だ」
(王妃様? ……国王様じゃなくて?)
雇人に関しては王妃が管理しているようで、リュシアンができるのはあくまで推薦までという。
「それと例に出しておいて悪いが、王宮侍女になるには試験が必要になる。すぐに働くことは不可能だ。だからそれ以外の形で君を雇うことになる」
「それ以外?」
てっきり侍女として雇われるのかと思っていたレナエルは、ほかにどんな役職があるのだろうと首を捻った。
「……本当に今さらで申し訳ないけど、君、名前は?」
「あっ。申し遅れました。レナエルといいます!」
そういえば名乗っていなかったことを思い出し、レナエルは慌てて遅めの自己紹介をする。その拍子におもわず顔を上げてしまったため再度下げようとするが、リュシアンに止められてしまう。
「そのままでいい。それでレナエル――君はずっと、俺を困らせるような要求ばかりしてくるな」
(うっ……その通りすぎてなにも言い返せないわ)
肩をすくめるリュシアンを見て、レナエルは気まずさに俯いた。
「……詳しい話は客間で聞こう。レナエル、こっちへ来て」
「は、はい!」
リュシアンが王宮の奥のほうへと案内してくれ、レナエルはそれについて行く。
(話は聞いてくれるのね。ここでどうにかリュシアン様を説得しないと、明日にはここを追い出されちゃうわ)
どうやってうまく自己アピールをするか考えるも、自己アピールをしたことがないためわからない。でも、レナエルの中でオーバン家には帰らないという意思は強固となっている。
リュシアンと会ったのも、王宮へ来たのも、きっとなにかの縁だ……と思いたい。それに王宮で働くことができれば、今後自分ひとりで生きていけるだけの知識や経歴も身に着けられる。
(国のトップが住む王宮での就職経験は、私の今後の人生の手助けになるわ)
実際、王宮での就職経験があればその後はどこの職にも就きやすいと言われている。伯爵家から逃げたばかりのレナエルからすると、こんなに運のいい巡り合わせはない。
長い廊下を歩いた最奥の部屋に到着すると、リュシアンが扉を開けた。
「入ってくれ。レナエルは今日、ここに泊まるといい」
そう言って案内された客間は、実家の自分の部屋よりも数倍豪華な部屋だった。
(広さも二倍はあるし……置いてある家具も小物も純金のものばかり……ベッドもひとりで寝るには大きすぎじゃないかしら!?)
客間でこれなら、リュシアンや国王、王妃の部屋はどれくらいすごいのかと興味が湧く。こんな部屋に泊まれるなんて、まるでお姫様にでもなったような気分だ。
オーバン家で、レナエルはいちばん狭い部屋をあてがわれていた。なにも欲しがらないレナエルの部屋は殺風景で、それならわざわざ広い部屋を用意しなくてもいいだろうと判断されたのだ。
(実際は私が欲しかったものや、お小遣いで買ったものも全部、ノエラお姉様とシャルロットに奪われただけなんだけどね)
レナエルが王宮の客間に泊まったことが姉妹に知られたら、ふたりはなんとしてでも自分もそこに泊まろうとするだろう。下に見ているレナエルが、自分より贅沢な経験をしていることをあのふたりが許すはずがない。
「荷物もなにもないようだから……着替えはクローゼットにあるのを勝手に着るといい。今着ているワンピースは汚れているし、洗うよう言っておく」
転んだせいで、レナエルが着ているネイビーのワンピースにはあらゆる箇所に土が付着していた。暗い色のためそこまで目立たないが、王宮で汚れたワンピースを着続けるわけにもいかず、レナエルはリュシアンの厚意に甘えることにする。
一旦リュシアンに部屋から出て行ってもらい、レナエルはクローゼットに置いてある服に着替えた。ゆるっとした大き目の白いシルクのワンピースは、締め付けがなく寝間着にちょうどいい。
(ものすごく高そうだから、丁重に扱わないと……)
うっかり飲み物をこぼしてシミをつけてしまえばいくら請求されるだろうか。こんなに肌触りの良い服は初めてだが、それ故に値段は相当なものだろう。
「リュシアン様、もう大丈夫です!」
扉を開けて、待機してくれていたリュシアンを部屋へ招き入れると、リュシアンはソファにどさりと座り込んだ。
レナエルが黙ってリュシアンの前に立ち尽くしていると「君も座れば?」と声をかけられる。
(……どこに?)
空いているのはリュシアンの隣だけで、そんな場所は恐れ多くて安易に腰をかけることはできない。ベッドに座るのも論外だ。床に正座でもしたらいいだろうかと考えたが、そんなことをして喜ぶのはノエラやシャルロットくらいなもので、リュシアンは求めていないだろうとレナエルは考える。
「いえ。私は立っていたい気分なので……!」
「? そうなのか。まぁ、疲れたらいつでも座っていい。それで、さっきの話を詳しく聞こうか」
背もたれにもたれかかっていたリュシアンが、今度は前のめりになり膝の上で頬杖をつく。
「レナエル。君の要望は王宮で働きたい、だっけ?」
リュシアンの優しい声色とは反対の鋭い眼差しは、レナエルがどこまで本気かを試しているようだった。
「はい。さっきも言った通り、私は実家に帰りたくありませんし、帰る気もありません。だからといって、どこか行先があるわけでもない。……こうしてリュシアン様と共に王宮に来たのがなにかの縁ならば、その縁を大事にしたいと思いました」
「君は俺に、どこかへ連れて行って、そこに置いて行ってくれと頼んだ。もし王宮じゃない場所に放置されていたらどうするつもりだったんだ?」
「その場合は、そこで今後どうするかを考えるつもりでした。私のいちばんの願いは、実家から逃げることだったので」
「なるほど。それで連れられた先が王宮だったから、ここで今後どうするかを考えた時に、働かせてもらうのが得策だと一瞬で思いついたということか」
「……大体そんな感じです」
そこまですぐに頭が回ったわけではないが、ほぼ正解だ。リュシアンの理解能力の早さにレナエルはひそかに感動する。ノエラとシャルロットはなにを言おうが、ちっとも理解してくれなかった。理解する気がある相手と喋れば、こうも簡単に会話が通じるのだとレナエルはようやく気付く。
「この先ずっと王宮に住まわしてくれとは言いません。私の居場所が見つかるまでの間だけでいいんです。もちろん、都合のいいことを言っているのは重々承知しております。……私、なんでもしますから! お願いします!」
明日どこかへ放り出されてまたイチからどうするかを考えるより、このまま王宮にしばらく置いてもらえるほうがどう考えたっていい。第二の人生をよりよくするために、レナエルはもう一度誠心誠意リュシアンにお願いする。
「……なんでも、か」
リュシアンはゆっくりと立ち上がると、レナエルと目線を合わせるようにして屈んだ。品定めされているようで、レナエルに緊張が走る。
「例えば侍女になるとしたら、毎日朝から晩まで広大な王宮の敷地を掃除をしたり、俺たち王族の世話や客人の世話をして、衣服や食事だって手配しなくてはならない。貴族令嬢だった君が、そんなこと耐えられるのか? 今まではやってもらう側だったろう?」
まるで尋問するかのように、リュシアンはレナエルの周囲をぐるぐると回りながら話す。
「雇ってすぐにやっぱり無理と言われたら、君を連れてきた俺の評価にも影響が出る。できないことをできるとだけは言わない方がいい。……今の俺の話を踏まえて、レナエルはどう思う?」
〝なんでもする〟というレナエルの発言が、リュシアンからすると引っかかったようだ。その場しのぎのための発言と思われたのかもしれない。だが――。
「できます」
「……え?」
リュシアンの足が、レナエルの正面でぴたりと止まった。
「今リュシアン様が言ったことなら全部できます。もちろん、王宮で働くとなるともっと作法を学びなおす必要はあるかと思いますが。実家でも掃除はやっていたし、食事の手伝いも客人相手のお茶出しもやっていました」
「……君が?」
「はい」
「なぜ?」
「……誰もやらないから? ですかね」
リュシアンは心底不思議そうな顔をしてレナエルに問いかけるも、レナエルもまた首を傾げた。
(一度やり出したら私がやるのが当たり前になって、私自身も自分がやるほうが早いから、なにも不思議に思わなくなっていたけど……)
実際考えると、貴族令嬢が使用人みたいなことをするのはおかしいのだろう。
「それに私、なんでもできるとは言っていません。でも、頼まれた仕事はなんでもやってみせます! できないことをできるようにするための努力だって、もちろんします!」
それがなんでもするって意味だと、レナエルはリュシアンに訴えかける。
「私のことをその辺の貴族令嬢と一緒にしないでください」
レナエルはノエラとシャルロットというとんでもない爆弾を抱えて、これまでオーバン家の伯爵令嬢をやってきた。表に出ず裏方でサポートすることは、むしろレナエルにとって日常だ。掃除もなにもできない甘ったれた令嬢とリュシアンに思われることは、レナエルには少々心外だった。
(……あっ。でも、リュシアン様は私の事情なんか知らないんだから、そう思っても仕方ないわよね……! ど、どうしよう。よけいなこと言っちゃった!)
勢い余って言ってしまったことを、レナエルは即座に我に返って後悔する。
「……ふっ。あははっ!」
だが、予想外にもリュシアンはレナエルの発言に笑い声を漏らした。楽しそうに笑う姿を見てレナエルは呆然とする。
「言われなくてもしてないさ。だって君、すごく変わり者だし。少なくとも俺はこの十八年間、君みたいな子には会ったことがない」
褒められているのか貶されているのかレナエルにはわからなかったが、今日いちばんの笑顔を見て、不快にさせてはいないのだろうなと察する。
「おとなしそうなのに無鉄砲さがあるのも面白い。話せば話すほど、君という人間に興味が湧いてくる」
「……リュシアン様を楽しませられるほど面白い人間ではないかと思いますが」
「いいや。現に今俺は楽しい。レナエルは俺の予想を超えることを言ってくるからな」
「はあ……」
どちらかというと王子相手に無礼なことを言っている気がするが、それが謎に刺さったようだ。
「はー。久しぶりに笑った。そういえば、大事なことを聞き忘れていた。……さっきの女性に襲われた理由に実家が関わっていると言っていたが、なにがあったんだ?」
リュシアンの話によると、ミラは罪人が拘束される地下収容所に入れられているらしい。処刑とまではならないようだが、殺人未遂となると長い間収容所からは出られないだろうとリュシアンは言った。
「彼女の婚約者に私の妹がちょっかいをかけて……婚約破棄に至ったようなんです。彼女はそれを私のせいと思っているみたいで、急に襲い掛かってきました」
「男女の色恋沙汰か。……彼女は俺も学園で何度か見かけたことがあるが、婚約者といつも一緒にいたのを覚えている。……恨みは相当なものだったということか」
ミラからすると、ただの色恋沙汰では済まされないほどの大事件だったに違いない。
「でも、悪いのは君ではなく君の妹だろう? なぜ君が犯人だと勘違いされたんだ?」
「それは……妹には悪い癖があって、都合が悪くなると誰かのせいにしがちなんです。こういった男女トラブルは姉妹間でこれまで何度もあって……ついに殺されかけたことから、私も本格的に身の危険を感じました。このままトラブルの渦に巻き込まれたらまずいと」
レナエルが姉や妹の悪事を誰かに話すのは、これが初めてのことだった。しかし、さすがにすべてを話そうとも思わない。それは、なにを言おうと今までそれらに目をつぶってきたレナエルにも、少なからず自業自得な部分があると思ったからだ。
「……そういうことか。でも、君が急にいなくなったら家族は驚くんじゃないか?」
「驚きはするかもしれませんが……一生懸命捜索するとも思えませんね」
自分で言ってレナエルは苦笑する。
両親もノエラやシャルロットばかり気にかけて、レナエルのことには興味がなさそうだった。しばらく帰ってこなくたって、騒ぎにはしないだろう。
「もし実家から捜索願が出されたら、その時は無事に生きていると一報入れます。ただ、連れ戻されるのは絶対に嫌です」
オーバン家は基本的に辺境地の領地経営を主な仕事としている。社交場で同等の伯爵家や子爵家と絡むことは結構あるが、王家との関わりはほとんどない。王家側から招待状を出さない限り、王宮で会うことはまずないはずだ。
「そうだな。こっち側が君を拉致したとも思われたくないし、捜索願が出された時はきちんとした対応をさせてもらう。……その条件を呑めるなら、働くことを許可しよう」
「本当ですかっ!?」
「ただ……君を雇うかどうかの最終決定を下すのは残念ながら俺じゃない。俺の母親、つまり王妃だ」
(王妃様? ……国王様じゃなくて?)
雇人に関しては王妃が管理しているようで、リュシアンができるのはあくまで推薦までという。
「それと例に出しておいて悪いが、王宮侍女になるには試験が必要になる。すぐに働くことは不可能だ。だからそれ以外の形で君を雇うことになる」
「それ以外?」
てっきり侍女として雇われるのかと思っていたレナエルは、ほかにどんな役職があるのだろうと首を捻った。