鬼神の100番目の後宮妃〜偽りの寵姫〜
陽然に傷痕を見られた次の日の夜、凛風が迷いながら湯殿へ行くと彼はすでにそこにいた。さっさと湯浴みをしろと、凛風を急かす。
しかし黒翔の毛並みを整えた後、蹄の手入れをするのは許されなかった。
「今宵はそれで終いにしろ。手習いに暇が取れなくなる」
「え? ……でも」
「蹄の手入れは俺がやる。ほら、来い」
黒翔の不満そうな鼻息を聞きながら、凛風が岩場へ行くと彼は凛風に腕を出すように促した。
戸惑いながら従うと、彼は凛風の腕に紐を巻き付けていく。驚く凛風が彼を見ると視線の先で少し照れくさそうに口を開いた。
「こうすれば、腕をまくらずとも袖に墨がつくことはない」
意外すぎる彼の言葉に、凛風は目を見開く。また泣き出しそうになってしまう。
醜い腕の傷を見られてしまい、傷ついていた心があっという間に癒やされていくのを感じた。
あの傷を見た人は、すべからく凛風を軽蔑し馬鹿にした。
昨夜の凛風は彼にそう思われるのがつらくてたまらなかったのだ。
でも彼はそうはせず、それどころか凛風が傷を気にせずに手習いを続けられるよう考えてくれたということだ。
昨夜打ち消したいと願い胸の奥へ押し込めた彼への想いがまた頭をもたげるのを感じた。
「ほら、はじめるぞ」
「……はい」
答えて凛風は筆を持つ。すると彼は当然のようにその手に自分の手を重ねる。
正しい書き方を今一度確認するということだろう。背後から自分を包む温もりに、凛風の鼓動が飛び跳ねる。
「止めと跳ねを意識しろ。払いは、わかるな?」
すぐ近くから聞こえる低い声音がどうしても甘く耳に響いて、凛風はたまらずに唇を噛む。
「次はひとりで書いてみろ」
陽然がそっと離れると、凛風は息を吐いて筆を握り直した。
ゆっくりと先ほどの感覚を思い出しながら紙の上で筆を滑らせる。彼の字には遠く及ばないながら、ずいぶんとよくなってきた。
「ん、いいな」
その言葉につられて視線を上げると、彼が笑みを浮かべて凛風を見つめていた。
その優しい眼差しに、凛風の鼓動が大きく鳴って、諦めにも似た気持ちを抱いた。
結局押し殺すことなどできなかった。
彼に強く惹きつけられる想いが、自分の中に確実に存在する。
この気持ちは、過酷な使命を課せられた自分には無用のもの、いやそれどころか、いざその時を迎えた時には足枷になると、わかっていても抗えない。
「これだけ書ければ上出来だ。もう少ししたら、文用の紙を持ってきてやる。自分の名を書いて送るだけでも、弟にはお前が息災だと伝えることができるだろう」
「……はい。ありがとうございます」
凛風は答えて目を伏せる。
彼は自分にとってはじめての男性だ。
はじめて名を教えてくれて、はじめて親切にしてくれた。
そしてはじめての気持ちを教えてくれた人。
男性を恋しく想う気持ちなど、知識としては知っていても自分とは関係ない必要ないと思っていた感情だ。一生知らなくてよかったのに。
――どうして今になって……。
改めて凛風は自分の運命を呪う。
どうして今になって、出会ってしまったのだろう。
人生の終わりが見えている今、この気持ちを知ってしまっても、つらくなるだけだというのに……。
彼の出会いは、自分にとって正しいことではないように思えて、それがただつらかった。
しかし黒翔の毛並みを整えた後、蹄の手入れをするのは許されなかった。
「今宵はそれで終いにしろ。手習いに暇が取れなくなる」
「え? ……でも」
「蹄の手入れは俺がやる。ほら、来い」
黒翔の不満そうな鼻息を聞きながら、凛風が岩場へ行くと彼は凛風に腕を出すように促した。
戸惑いながら従うと、彼は凛風の腕に紐を巻き付けていく。驚く凛風が彼を見ると視線の先で少し照れくさそうに口を開いた。
「こうすれば、腕をまくらずとも袖に墨がつくことはない」
意外すぎる彼の言葉に、凛風は目を見開く。また泣き出しそうになってしまう。
醜い腕の傷を見られてしまい、傷ついていた心があっという間に癒やされていくのを感じた。
あの傷を見た人は、すべからく凛風を軽蔑し馬鹿にした。
昨夜の凛風は彼にそう思われるのがつらくてたまらなかったのだ。
でも彼はそうはせず、それどころか凛風が傷を気にせずに手習いを続けられるよう考えてくれたということだ。
昨夜打ち消したいと願い胸の奥へ押し込めた彼への想いがまた頭をもたげるのを感じた。
「ほら、はじめるぞ」
「……はい」
答えて凛風は筆を持つ。すると彼は当然のようにその手に自分の手を重ねる。
正しい書き方を今一度確認するということだろう。背後から自分を包む温もりに、凛風の鼓動が飛び跳ねる。
「止めと跳ねを意識しろ。払いは、わかるな?」
すぐ近くから聞こえる低い声音がどうしても甘く耳に響いて、凛風はたまらずに唇を噛む。
「次はひとりで書いてみろ」
陽然がそっと離れると、凛風は息を吐いて筆を握り直した。
ゆっくりと先ほどの感覚を思い出しながら紙の上で筆を滑らせる。彼の字には遠く及ばないながら、ずいぶんとよくなってきた。
「ん、いいな」
その言葉につられて視線を上げると、彼が笑みを浮かべて凛風を見つめていた。
その優しい眼差しに、凛風の鼓動が大きく鳴って、諦めにも似た気持ちを抱いた。
結局押し殺すことなどできなかった。
彼に強く惹きつけられる想いが、自分の中に確実に存在する。
この気持ちは、過酷な使命を課せられた自分には無用のもの、いやそれどころか、いざその時を迎えた時には足枷になると、わかっていても抗えない。
「これだけ書ければ上出来だ。もう少ししたら、文用の紙を持ってきてやる。自分の名を書いて送るだけでも、弟にはお前が息災だと伝えることができるだろう」
「……はい。ありがとうございます」
凛風は答えて目を伏せる。
彼は自分にとってはじめての男性だ。
はじめて名を教えてくれて、はじめて親切にしてくれた。
そしてはじめての気持ちを教えてくれた人。
男性を恋しく想う気持ちなど、知識としては知っていても自分とは関係ない必要ないと思っていた感情だ。一生知らなくてよかったのに。
――どうして今になって……。
改めて凛風は自分の運命を呪う。
どうして今になって、出会ってしまったのだろう。
人生の終わりが見えている今、この気持ちを知ってしまっても、つらくなるだけだというのに……。
彼の出会いは、自分にとって正しいことではないように思えて、それがただつらかった。