鬼神の100番目の後宮妃〜偽りの寵姫〜
鬼神の寵愛

夜のお召し

 日が落ちた後宮にて、静まり返った大廊下を、先導する女官に続いて凛風は歩いている。
 頭に挿した簪がいつもより重く感じる。前で組んだ両手の震えがいつまでも治らなかった。
 両脇にはずらりと並ぶ妃たち。部屋から出てきて凛風を憎々しげに睨んでいる。

「あの子……あんなに汚い身体で陛下のもとへ上がるつもり? 正気じゃないわ」

「陛下はご存じないのよ、あの汚い傷」

「きっとすぐに戻されるわ。帰ってきたら笑ってやりましょう」

 今、凛風は、実家から持ってきた肌が隠れる衣服ではなく、後宮にて用意された薄い衣装を身に着けている。
 皇帝の気を引く装いをするのは閨に召された妃の義務なのだという。
 真っ直ぐに続く廊下の先を見つめる凛風の目は絶望の色に染まっていた。
 謁見後、凛風はすぐさま女官たちに取り囲まれ、皇帝の寝所に召されるための準備に取りかかった。
 湯浴みをして髪を梳き、爪を整える。寝所に召された際の手順から閨での作法までを後宮長から教えを受けた。やることは際限なくあり、自室へ戻ることも許されないほどだった。
 長い廊下は、自分の死へ続く道。
前後を挟む女官が黄泉(よみ)の国からの使者ように思えた。
 今すぐに逃げ出してしまいたい。いつものように湯殿へ行き、陽然の顔を見たい。
 でもそれは決して許されないことだった。
そのようなことをすれば、浩然の命はない。

 ――ごめんね、浩然。

 一瞬でも逃げたいと思ってしまった自分を凛風は責める。自分の心と弟の命、比べることなどできるはずもないというのに……。
 一行は、後宮と清和殿を繋ぐ外廊下に差しかかる。清和殿の建物へ続く階段の下で、女官長が立ち止まり振り返った。

「この扉の先が、陛下がいらっしゃる清和殿にございます。我らはここより先は行けない決まりになっております」

 凛風は震える脚で階段を上る。清和殿は荘厳な空気に包まれていた。
 階段を上りきると繊細な彫りが施された観音扉が音もなく開く。中に入ると背後で閉まる。
 前室は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
 この世ではない場所に足を踏み入れたような危機感に襲われる。今から自分が対峙するのは、本当に人ではない存在なのだ。殺めることなどできるはずはないと思うのに、やらなくてはならないのだ。
 あらかじめ女官長から聞いかされていた作法の通り、奥の扉に向かって凛風は口を開いた。

「百の妃、郭凛風参りました」

 扉がゆっくりと開いた。
 こくりと喉を鳴らして、凛風は首を垂れる。床に視線を固定したまま、部屋へ入ると、背後で扉が閉まる音がした。気が動転してどうにかなってしまいそうだ。悪い夢だったらどんなにいいか。
 女官長から教えられた作法はここまでだ。後は皇帝に身を任せろと言われている。
 首を垂れたまま、凛風は彼の足音がこちらへ近づいてくるのを、固唾を呑んで聞いている。足先が視線に入ったその刹那、ふわりと感じる香りに、凛風の頭が混乱する。
 今朝、皇帝の指名を受けてからひと目だけでも会いたいと思い続けたあの人の香りのように思えたからだ。
会いたいと強く思いすぎて、ありもしないことを感じてしまったのだろうか。
 視界の中の靴の足先も、彼が纏う衣も最上級品だ。一介の役人が身につけられるものではない。目の前にいるのは、紛れもなく皇帝だ。

「いつまでそうしているつもりだ?」

 どこか楽しげな声が聞こえて、凛風は目を見開く。この声音にも聞き覚えがあった。
 顔を上げて皇帝の顔を見た瞬間、「え」と掠れた声が出る。そのまま彼の顔を見つめて言葉を失った。
 皇帝と思っていた相手が陽然だったからだ。
 自分は目までおかしくなったのだろうか? ありもしない幻覚を見るなんて。
 いつまでも彼を見つめたままなにも言えない凛風に、彼は楽しげにふっと笑った。

「驚きすぎて、言葉が出ないようだな」

「陽然、さま……?」

 掠れた声で尋ねると、彼は笑みを浮かべたまま頷く。

「ああそうだ、俺だ。陽然は幼名だ。今の名は暁嵐」

「陽然さまが、皇帝陛下……」

 唖然としたまま呟いて、自分の言葉にハッとする。目の前に広がる絶望の色がより濃くなるのを感じた。
 陽然が皇帝だった。
 つまり自分は、彼を殺めなくてはならないということだ。
 なんて残酷な定めのもとに生まれてしまったのだろうと、凛風は自分の運命を呪う。同時にやはり自分は彼を愛おしく思っているのだと確信する。
 彼は、凛風が生まれてはじめて特別な感情を抱いた人であり、凛風に名前を書けるよう教えてくれた人なのだ。
 その彼を殺めなくてはならないなんて……!
 頭がカァッと熱くなり鼓動がばくばくと鳴りはじめる。指先からスッと冷えるような心地がした。そのまま身体の力が抜けて崩れ落ちそうになったところを、彼に素早く抱きとめられた。

「大丈夫か」

 抱き上げられ、寝台へ運ばれる。肌触りのいい上質な敷布の上に優しく下ろされた。
 寝台の隣に腰を下ろした彼が自分を見つめる優しげな眼差しに、凛風の胸はズキンと痛む。

「驚かせて悪かった」

 彼の手が凛風の頬をそっと撫でるその感触を心地よく感じてしまうのがつらかった。
もっと触れてほしいと思うのに、それはふたりの死への道筋を辿ることを意味するのだ。
 凛風が胸元の手をギュッと握った、その時。

「安心しろ、伽をせよとは言わん」

 暁嵐がふっと笑って、自分が着ていた上衣を脱ぎ、薄い衣装の凛風を包んだ。

「……え?」

 首を傾げると、肩をすくめた。
「俺は伽をさせるためにお前を閨に呼んだのではない」
 意外な言葉に、凛風は瞬きをする。
 寝所に召されても、閨をともにしなければ、使命を実行することはできない。彼にその気がないということは、とりあえず今夜は使命を果たさなくていいということだ。

「そう……なんですか」

 凛風はホッと息を吐く。
 意外な成り行きではあるけれど、差しあたって今夜は生きながらえることができたのだ。
 緊張が一気に溶けて胸を撫で下ろす凛風に、暁嵐が噴き出した。驚き首を傾げる凛風の視線の先で、そのまま肩を揺らしている。

「あの……?」

「皇帝の伽を逃れて、そのようにあからさまに安堵するな。不敬罪に問われても仕方がない振る舞いだぞ」

「え!? あ……。も、申し訳ありません」

 指摘の意味を理解して、凛風は慌てて謝罪した。
 凛風が安堵したのは、今すぐに使命を実行しなくてよいからだ。彼と閨をともにしたくなかったからではない。
でも凛風の正体を知らない彼から見たら失礼な振る舞いに見えたのだろう。
 妃が皇帝の伽を嫌がることなどあってはならないこと。今彼が言ったように罰を受けても仕方がない。
 でも彼にそのつもりはないようだ。
 心底おかしそうに笑っている。その姿を見るうちに、凛風の中で自分が恋しく思っていた男性と皇帝としての彼が完全に一致する。思い切って尋ねてみることにする。

「……ではなぜ、私をここへ呼んだのですか?」

 閨に侍らせるつもりがないなら、どうしてわざわざ指名して寝所で会う機会を作ったのだろう?

「俺が妃を呼ばないことを皆が不満に思っている。とりあえず誰かを呼べば納得するだろうと思ったのだ」

 つまり彼は、家臣たちへの手前、凛風を呼んだというわけだ。
 確かに、誰も寝所に呼ばれないことについては、妃たちの間でも相当不満が溜まっていた。今宵のことで彼女たちが納得したわけではないけれど、誰も呼ばれないという状況よりはましになったと言えるだろう。
 実際、ここへ来るまでの廊下でも『次は私』といった囁きも耳にした。

「それに、手習いには岩場は不向きだからな」

「手習いを……? ここでしてもいいのですか?」

 思いがけない彼の話に、凛風は弾んだ声で聞き返した。
 いったん使命から逃れられただけでなく、一度諦めた手習いを続けることができるのだ。絶望の色に塗りつぶされていた心に、再び光が差し込んだような心地がする。

「ああ、だが今宵はダメだ。疲れているようだからな。明日からは毎夜お前をここへ呼ぶ。その時に」

「ありがとうございます」

 思わず笑みを浮かべてしまってから、少し気まずい思いで彼を見る。
夜伽より手習いをできることを喜んでしまったのが、さっきのように失礼にあたらないか心配になったのだ。

「も、もちろん、陛下の夜伽の方が大切ですが……」

 ごまかすように妃としての最低限の言葉を口にすると、彼は凛風を安心させるように首を横に振った。

「さっきはああ言ったが気にする必要はない。もともと俺は、その気がない妃に伽をさせるつもりはないからな」

「その気がない妃には伽をさせない……?」

 彼の言葉を、凛風は心底不思議に思う。皇帝である彼の口から出たとは思えない内容だ。
 皇帝はこの国の最高権力者で、望めばなんでも思うまま。彼の意向に臣下である民が従うのはあたりまえだ。彼がいちいち従わせる者の心境を気にする必要はない。
 固まったまま考える凛風に、暁嵐が眉を寄せて問いかけた。

「まだ不安か? 俺は嘘は言わん」

「い、いえ、そうではありません。陛下のお言葉を疑っているわけではなく、ただ……」

「ただ?」

 問われるままに、素直な疑問を口にする。

「少し、不思議なお言葉に思えました」

「どういうことだ?」

「……陛下が……その、妃(わたしたち)の心を考えてくださるのが……。従うべき者は胸の内がどうだろうと、力のある者に従うべきですから」

 凛風の言葉に、暁嵐は険しい表情になり、強い視線を凛風に向けた。

「いいか、凛風」

 力強く自分の名を呼ぶ暁嵐に、凛風は目を見開いた。

「俺はそのようなことはしない。民が己の心のままに生きられる世を作ると決めている」

「己の心のままに生きられる世……?」

「そうだ。身分の上下に関わらず。嫌なものは嫌だと言える世だ。だから俺はたとえ相手が家臣だろうが妃だろうが、相手の心を蔑ろにして、望まぬことを強いることはしたくないと思っている」

 彼の言葉は、凛風にはおかしなことのように思えた。
 身分の低い者、力のない弱い者は強い者に従う。その仕組みでこの世は成り立っている。
 そもそも人が弱い存在で、鬼である彼に魑魅魍魎から守ってもらわなくては存在できないというのに。

「家臣を従わせている俺がこのようなことを言うのはおかしいか?」

「そのようなことは……。ですが、考えたことのない話でしたので……」

 混乱しながら凛風は答える。彼の言う世が、人にとっていい世なのかどうかすらよくわからなかった。

「ならこれから考えろ。もしそのような世であれば、お前はどうするのか。どのような行く末を望むのか」

「どのような行く末を望むのか……」

 混乱したまま呟くと、暁嵐が表情を緩ませ凛風の頭をポンポンとした。

「すぐに、とは言わん。とにかく今宵は疲れたであろう。もう休め」

 そう言って彼は寝台の掛布をまくる。
 寝台に横になるように促され、凛風はどきりとして固まった。
 確かに今日は疲れたが、ここで休むわけにはいかない。なにせここは彼の寝台なのだ。凛風がここで寝るということは、彼と同じ寝台で眠ることを意味する。

「へ、陛下……私は、床で寝ます」

 頬が熱くなるのを感じながらそう言うと、彼は不快そうに眉を寄せた。

「陛下はやめろ。今まで通り、名でいい」

「名って……暁嵐さま……ですか?」

「それでいい。それから俺は女を床に寝かせる趣味はない。同じ寝台で寝るのが嫌なら、俺が床で寝る」

 有無を言わせぬようにそう言われて、凛風は慌てて首を横に振った。

「同じ寝台で大丈夫です。嫌ではありません」

 まさか彼に床で寝てもらうわけにはいかない。
 暁嵐が寝台に向かって首を傾ける。ならば言う通りにしろという意味だ。
 凛風が恐る恐るそうすると、彼も隣に横になる。
 大きな寝台だから互いの身体が触れ合うことはなさそうだ。それでも隣に彼がいるという状況に凛風の胸はドキドキとした。
 とても寝られそうにない。
 けれど、皇帝のために用意された寝心地のいい寝台の中で目を閉じると、途端に眠気が襲ってくる。
 暁嵐の手が頬に触れたように感じても、目を開けることができなかった。優しい温もりは、なぜか母を思い出す。

 己の心のままに生きられる世。

 もしそのような世であれば、自分はどのような行く末を望むのか……。
 彼からの問いかけを頭の中で繰り返し、凛風は眠りに落ちていった。
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